「基本を忘れた者に栄冠は来ない」…セルゲイ氏




セルゲイの写真 「基本を忘れたものに栄冠は来ない」−。青山学院大学レスリング部OB会の招へいで、現ロシア・ナショナルチーム・コーチのセルゲイ・ベログラゾフ氏が10月4〜14日に来日した。昨年シドニーへ向かう際の成田空港でのトランジットを除けば、約2年ぶりの日本である。

 来日早々のベログラゾフ氏
(右写真=9月6日に双子の姉妹が誕生)に、10月5日に東京・駒沢体育館で行われていた全日本学生王座決定戦を観戦してもらった。試合の感想を求めたところ、「弱すぎる……」。今さらながら、日本のレベルの低さを嘆いた。

 翌日からのセルゲイの指導は、まず防御の基本から始めた。東京・渋谷にある青山学院大のレスリング場には、同大学の選手のみならず、早大、拓大、国士大、自衛隊の選手らが連日訪れた。日本協会の和田貴広専任コーチも参加し、その理路整然とした技術指導に耳を傾ける。

 首尾一貫して強調したのは、基本動作を正確に反復すること。最終日に初心者を対象にして行われたセミナーでも同じだった。

 「基本的な動作を、100パーセントの力で集中して何度も何度も繰り返すこと。それも、試合のつもりで練習しないといけません。そうしないと、試合で同じことはできないです。基本練習を1000回でも繰り返すことが大事です。確かに、その練習は非常に疲れますけどね」

 体を前へ動かして脚を取りさえすればよいと思われがちな片足タックルひとつとっても、腕の組み方を確実にし、攻撃と同時に防御も可能にするトレーニングを積まねばならない。そうしなければ、確実な技術にはならない。右足を取るときと左足を取るとき、それぞれの動きを比べると線対称になるべきなのだが、右でも左でも同じ腕の組み方で脚を取ろうとする選手がいる。また、取るときによって腕の組み方が違っている選手もいる。そんな粗雑なことでは確実な技術にはならない。

 東京工業高校の選手が練習に参加した時、セルゲイは何度も繰り返して実演し説明した。しかし、ついた癖はなかなか矯正されない。続けて投げ技の基本動作を説明するが、その基本動作をクリアできている選手はほとんどいなかった。セルゲイはぐるりを見回し、苦笑いしながら「タカヒロ(=和田貴広)しかできていないよ」ともらした。

 現役レスラーではなく、コーチしかクリアできていない。日本のレスリングレベルの底上げには、相当な時間がかかりそうだと思い知らされた。

セミナーの写真 ビギナー相手の講習会
(写真左)の最後を締めくくった言葉は、何度も耳にした言葉の繰り返しだった。「最初は大変だと思います。しかし、この基礎練習を3年もすれば、レスリングが面白く、楽しくなります。また、この基礎練習なしに、世界を目指すことはできません。どうか、レスリングを楽しんで続けて下さい」

 ピアノを習ったことのある人なら、必ず運指(うんし)の練習からピアノのレッスンが始まることは知っているだろう。鍵盤を押すには、基本法則がある。右手の親指は必ず中指をくぐって、逆に左手は、中指を親指の上をまたがらせて動かしていく。他にも、細かく薬指などの使い方が決まっている。この、もっとも効率的で、無駄な力の入らない指の動かしかた(=運指)を覚えなければ、ピアノのレッスンは初級すら終えることができない。

 この運指のトレーニングは、早い人で半年、普通は数年かかって覚え込む。そして、プロのピアニストになっても、必ず毎日繰り返す。レスリングでも、その原則は変わらない。セルゲイが繰り返し言っていたのは、同じことなのだろうと思う。

 そして、その基礎への厳しさは、そのままトップレベルの厳しさへつながる。9月末に予定されていた世界選手権は、11月下旬と12月初旬に繰り延べされた。その世界選手権へのロシア代表についてセルゲイが明かした話は、驚くべき内容だった。

 「シドニー五輪で金メダルのアダム・サイティエフ(フリー85kg級)は代表に選びません。これは、6人の強化コーチ陣で出した結論です。彼は、シドニー五輪以来、一回もきちんとした試合をしていない。代表合宿にもほとんど来ない。たまに来た合宿で練習試合をすると強い。圧倒的に強くてロシア王者にも負けない。きっと、世界選手権に出れば世界チャンピオンになるでしょう。だが、彼は世界選手権へ出ようという意思が見られない」

 たとえ2年連続世界を制し年間最優秀レスラーに選ばれても、常に基本姿勢を問い、その基準に達しないものは選考しない−。ロシアの強さの後ろには、日本では想像できない厳しさが広がっている。




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