【特集】故郷に戻る“吹田市民教室の押立吉男”




 大阪・吹田市民レスリング教室といえば、少年少女レスリングの雄としてレスリング界に名をとどろかせているが、中学レスリングでもさん然と輝く記録を樹立してきている。今大会でも優勝2選手、準優勝1選手を輩出。この2選手を足してこれまで全国チャンピオンをのべ24選手を生み、そのうちの何人かは高校へ行っても輝かしい記録を打ち立てる選手に成長している。

 吹田市民教室を1980年から引っ張り、トータルで2000人を超える選手を指導してきた押立吉男代表は、日本協会副会長をはじめ全日本学生連盟会長、全国少年連盟会長(現職)、全国中学生連盟副会長(現職)、西日本学生連盟会長、大阪府協会会長(現職)など、あらゆる連盟の要職をこなしてきた。

 しかし来年3月に日本協会理事の定年を迎え、最大の任務から解放される。これを機に他の役職も退き、残りの人生を少年少女レスラーたちとともに楽しく過ごす腹積もりだ(もっとも、周囲の説得に応じて、いくつかは手離したくても手離せそうにないというのが現状のようだ)。

 医者から「酒とレスリングを続けたらポックリいきますよ」と宣告されても、その2つをやめることはないだろう。事実、一昨年、大阪大病院でこれまで2例しかなく、うち1人は死亡したという喉(のど)の声帯不全の奇病におかされ緊急手術。命をとりとめて退院し、「大声を出してはいけません」と指導されたにもかかわらず、翌日から道場に行き、大声で子どもたちの指導を始めている。

 「生きがいをなくして長生きしても、しょうもないわ」。レスリングのために職場の転勤命令を拒否し出世を棒に振った。レスリングに打ち込むあまり、離婚の危機もあった。一方で、その情熱と行動力がゆえに、いろんな連盟の要職に押し上げられた。だが、それは決して本意ではなかった。なぜなら、その分、子どもたちとレスリングをやる時間が取れなくなるからだ。

 「会長」「副会長」とは名ばかりで、ほとんど活動しない人もいるが、押立代表は違う。日本協会の副会長時代、理事会の度に大阪から東京まで日帰り往復した(ほとんどが自費)。吹田市民教室のコーチは、“東京出張”の前日、子どもたちに「あすは東京へ行かなければならないから練習には来られない。がんばって練習するように」と伝える時の押立代表は本当にさびそうな顔だったと証言する。

 会議では、付和雷同(大勢につくこと)することなく自分の意見をきちんと主張した。正論が必ずしも組織に受け入れられるわけではない。その個性の強さゆえに、うとんじられることもしばしば。組織の中に入ってしまえば、付和雷同が生き残るために賢い方法であることは間違いないが、その性格と肩書きに固執しない気持ちが、敵を作りながらも主張する行動につながってしまう。

 だが、純粋にレスリングに打ち込む姿勢に対し、敵の数以上に“シンパ”も多い。吹田市民教室を20年以上にわたって300人近い部員数をキープし、全国一を維持してきた事実と、多くの連盟の要職を兼任し続けてきた事実が、その何よりの証明だ。今回の大会も、出場選手数より、付き添いの親の数の方が多い。わが子(押立代表からすれば他人の子)に対する熱心な指導に、両親ともにいつの間にか吹田市民教室のコーチとなって押立代表に協力するようになるからだ。

 今大会に参加した長尾コーチは、押立代表について、「週5回、吹田で行われているすべての教室(注・吹田は市内4か所に分けて教室を行っている)をまわります。71歳にして、まだ子どもたちの打ち込みを受け、スパーリングをやります。この前は、左ひじが内出血し、血を抜きました。でも、翌日からまた練習しています。マットの上げ下げも率先してやります。会長ならそんなことしなくてもいいのにね」と証言する。

 同コーチは、300人近い子どもたちの顔と名前がちゃんと一致することにも驚きを隠せない。勝利至上主義だという批判もあるが、決してそんなことはなく、大会の度に1回戦負けの選手にもきちんと目をかけているからこそ、できることだろう。毎年度末には卒業生に対して表彰式をやっているが、ほとんど勝つことのなかった選手にも賞を授与。驚くその選手に対し「6年間、しっかりやったじゃないか」と声をかけ、感激させたという話は数知れない。

 ことし7月には大阪(舞洲アリーナ)で全国少年選手権がある。「地元だし、優勝しなきゃあかんですよ」。71歳の名コーチは、ひじを内出血させながらも、少年少女レスラーとマットの上げ下げをし、練習に打ち込む至福の時をすごす。地元での全国大会V16達成は、日本協会理事などの“雑事”を終え、“吹田市民レスリング教室の押立吉男”という原点に戻っての再スタートである。



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