【特集】「絶対勝つと死ぬ気で戦いました」…吉田沙保里


 【55kg級】吉田沙保里(中京女大) 優勝

 予選1回戦 ○[フォール、0:38=5-0] 佐久間静(栃木・足利工大付高)
 予選2回戦  BYE
 予選3回戦 ○[フォール、0:27=5-0] 岩嶋沙織(東京・代々木ク)
 決    勝 ○[6−1] 山本聖子(ジャパンビバレッジ)

   

     

    


 注目された55kg級の世界女王対決は、吉田沙保里がましても山本聖子を破り、アテネ五輪の代表を一気に決めた。ポイントを先制して試合の主導権を握り、山本の投げ技をすばらしい身のこなしでかわして逆に3点をゲット。6−1とした段階で試合をほぼ決めた。

 体調は最悪だった。計量の日に愛知県から上京したあと、原因不明で39.5度の熱が出た。点滴や座薬でしのいで大会を迎えたが、初日は熱が出たままの状態。最終日も朝の6時にまだ熱が下がらず、栄和人監督が氷を買いに走ってくれる状態。会場へ向かうころ、やっと熱が下がってくれたという。

 こんなコンディションでも勝利への執念と勝負勘とは鈍っていなかった。「聖子ちゃんと最初に組んだ時、すごい力を感じましたが、弱気にならなかったのが勝因です」。山本の固い守りの前に両足タックルには入れなかったものの、片足タックルを2度決めてポイントをリードできた。

 昨年の参考試合での連敗は、いずれもグラウンドを返されてのもの。がぶりからバックを取られて1点を返されたものの、「これで勝てばオリンピック出場が決まると、何度も言い聞かせ、絶対勝つと死ぬ気で戦いました」と守り切った。

 高熱を出した原因として考えられるのは、体重を増やしての減量に取り組んだからかもしれなかった。これまでは通常体重が55kgくらいで、ほとんど減量がなかった。外国へ行った時には、体重が減り55kgないこともしばしば。世界で戦うには不安があったので、58kgくらいまで増やし、初の減量に取り組んだという。今回は失敗したが、この方針はアテネまで変えないつもり。

 「次の闘いはもう始まっています」と吉田。1973年に全日本王者に輝いて76年モントリオール五輪を目指しながら国内予選で敗れて夢かなわなかった父・栄勝さんの分も、また表彰式のときに「ありがとう。応援しているから」と言ってくれた激戦の相手の山本聖子のためにも、アテネで取るのは絶対に金メダル。

 国際大会の15大会連続優勝のほか、01年全日本選手権で山本に負けたあとから続いている連勝記録も「48」と伸び、浦野弥生や山本美憂の「45」(推定=試合数不明の大会あるため)を超えて女子レスリング界のトップに立った(参考試合は除く)。競技レベルが格段に向上していることを考えれば、破られることのない不滅の大記録となる可能性が高い。

 それらの連勝街道の当面の終着点は、8月24日のアテネであることは言うまでもない。体調管理という反省材料を見つけながらも、無敵の21歳はアテネ五輪の金メダルへ突っ走る。

(取材・文=宮崎俊哉、樋口郁夫) 




《前ページへ戻る》