【特集】「北京五輪では最低金メダル3個!」…栄和人ヘッドが壮絶決意




 女子ナショナルチームを率いることになった栄和人ヘッドコーチ(写真左=中京女大職)が2月16日、船出となる今年最初の全日本合宿(東京・国立スポーツ科学センター)で、多くの報道陣を前にして2008年北京五輪での「最低金メダル3個(注:4階級実施の場合。国際レスリング連盟は国際オリンピック委員会に対し7階級の実施を要望している)」をぶち上げた。

 栄ヘッドコーチは「アテネ五輪以上の成績を残す。金2・銀2でもアテネ以上と言えるが、目標は金3個。もちろん全階級制覇を狙って強化したい」と強調した。報道陣受けするための大風呂敷ととる向きもあるかもしれない。アテネ五輪の約3年前に五輪採用が決まった前回と違い、これからの4年間は、米国やロシアといったレスリング王国、さらには地元の中国が全力を挙げて強化してくるはず。そのレベルアップを考えた場合、現状維持でも厳しいのが現実。「金2個は守りたい」と公約したとしても、それを守るにはこれまでの何倍も努力をしなければならないだろう。

 だが栄ヘッドコーチは大まじめだ。「スポーツ大国と言われるアメリカだ、ソ連だ、中国だ、と言っても、すべてのスポーツのすべての種目で強いなんてことはありえない。女子レスリングだけは、絶対に日本が世界一のが城を守る。日本のスポーツの中で、これだけは絶対に崩れない、という確固たる王国を築く。それが、これからの4年間、自分に与えられた使命だと思っている。目標は全階級制覇。絶対に不可能なことではない」。

 前任の杉山三郎部長が基盤を築いた中京女大レスリング部を、世界最強のチームに育てた自信と自負は、ナショナルチームのトップに立っても揺らぐことはなかった。

 そんな栄ヘッドコーチがやろうとしていることは、短期的なサイクルで考えるなら、今年のワールドカップ(5月、フランス)の団体優勝であり、世界選手権(9〜10月、ハンガリー)での最低4階級制覇だ。だが、それらナショナルチームの強化は、アテネ五輪までをともに指導してきた金浜良コーチ(ジャパンビバレッジ)と木名瀬重夫コーチ(日本協会専任コーチ)のほか、新任の藤川健治コーチ(自衛隊)が精力的に動いてくれているので心配はしていない。
(写真右=練習を見守る栄ヘッドコーチ)

 自分の立場で早急に取り組まねばならないと考えているのは、ジュニア(18〜20歳)とカデット(16〜17歳)世代の底上げによる強化だ。昨年1年間、アテネ五輪での活躍に目がいき、マスコミは“女子レスリング王国”とまで持ち上げてくれているが、次代の選手の実力がもはや世界で抜群の力ではないことに気がついている人は、レスリング協会内部でも少ない。

 栄ヘッドコーチは「ジュニア、カデット世代に非常ベルが鳴っている」と警句を発する。例えば2003年の世界ジュニア選手権(トルコ)では、日本は金メダル1個しか取れず、しかもメダル獲得はこれだけという大会史上最悪の成績。国別対抗得点では、中国(55点=金2・銀3・銅1)、ロシア(47点=金3)、米国(39点=金1・銅1)に次いで4位(36点)に転落している。

世界ジュニア選手権の年度別成績
年 度 国別対抗得点
1993年 優勝
1998年 2位(優勝=ロシア)
1999年 優勝
2000年 2位(優勝=ロシア)
2001年 2位(優勝=ロシア)
2003年 4位(優勝=中国)

 2004年は、アジア・ジュニア選手権(カザフスタン)でこそ8階級中7階級を制覇したが、アジア・カデット選手権(キルギスタン)では2階級エントリーしなかったハンディもあって4位に転落している(優勝は3選手で最多)。

 確かに、坂本真喜子らジュニアの世代でありながら、シニアの大会出場のためにジュニア大会を欠場した選手もいる。坂本真喜子が2003年世界ジュニア選手権に出ていれば、金メダルが1個増えたかもしれない。しかし国別対抗得点で4位を脱することができたはどうかは疑問。2004年のアジア・カデット選手権では、中国が出ていない状態で団体4位というのはゆゆしき事態。アジアのトップを維持することが難しくなってきた現実がはっきりと見えてくる。

 「ジュニア、カデット世代が力をつけ、シニアを突き上げることは絶対に必要なんだよ」と栄ヘッドコーチ。確かに日本が2003年世界選手権で5階級を制覇した圧勝劇に至るまでの数年間、世界チャンピオンになった選手は下からの強烈な突き上げか、国内で壮絶な争いを経験した選手ばかりだ。

 1999年に世界一になった
山本聖子(51kg級)には、前年世界一の篠村敦子がいて、目標にすることで力をつけた。正田絢子(62kg級)は宮崎未樹子という元世界チャンピオンと大接戦を繰り広げた挙げ句の世界一だ。

 2000年世界一の
坂本日登美(51kg級)は篠村敦子の壁を乗り越えての世界一。2002年世界一の伊調馨(63kg級)は56kg級時代に山本聖子に勝つ殊勲を挙げて実力を伸ばし、その後も正田絢子という元世界チャンピオンとの闘いがあった。吉田沙保里(55kg級)にはやはり山本聖子という壁が存在した。2003年世界一の伊調千春(51kg級)は、勝つことはできなかったが坂本日登美という世界チャンピオンを目標にして力をつけ、日の丸を揚げた。

 2003年世界選手権の5階級制覇と翌年のアテネ五輪の勝利は、国内でのし烈な争い、そして見事な“新陳代謝”を経てのことだった。だが、今のジュニア、カデット世代の現状では、この再現は望めない。栄ヘッドコーチは「去年はオリンピックということで、シニアにだけ目がいってしまった面があった。今年はジュニア、カデット世代を徹底的に強化するよ」と話し、この合宿前に、富山英明強化委員長にジュニアやカデットの日本代表チームの合宿の必要性を訴えた。

 また、ジュニア担当の成富利弘コーチ(東京・安部学院高教)をはじめ、地方の指導者とも十分なコミュニケーションをとって強力な組織をつくることが急務と考えている。世界の実力を把握し、日本選手の置かれている位置を確認するために、アジア・ジュニア選手権(6月、韓国)、世界ジュニア選手権(7月、リトアニア)、アジア・カデット選手権(7月、茨城県大洗町)のすべてに足を運び、その目で確かめる予定だという。

 「今のトップ選手が、このまま北京五輪までトップを占めていくようではダメ。若手が育たなければね」。まだレスリング関係者の一部にしか聞こえていない非常ベルを、全国の女子の指導者の耳に届け、強化してもらうことも自分に課せられた使命だと自覚している。

 世界の女子レスリング界で圧倒的な力を持っていた日本が、その実力に陰りが出てきたのが1996年だった。団体世界一を守ったものの、優勝は宮崎未樹子(65kg級)と浦野弥生(70kg級)の2人のベテランだけ。若手の伸びが止まっており、先には暗雲がただよっている状態だった。

 そこに活力をみなぎらせたのが19歳の浜口京子だった。そして篠村敦子、山本聖子、正田絢子という10代の世界チャンピオンが誕生。彼女らを追い立てるように中京女大の若い選手が実力を伸ばし、追い越して今の栄光へとつなげた。栄ヘッドコーチが若手の強化に情熱を注ぐのは、若手育成によって王国を確立した経験からであり、このやり方に強い信念を持っているからほかなるまい。

 「絶対に取るよ、最低でも金3個」。この公約を実現するには、ナショナルチームで栄ヘッドコーチを支えるコーチのみならず、全国の女子レスリングの指導者が各選手をしっかりと育ててくれることが必要になってくる。いかに多くの指導者と太いパイプをつくるかが、公約の実現のかぎをにぎるだろう。

 北京五輪での勝利を目指して出航した“栄丸”。エネルギーは栄ヘッドコーチ、そして全国の指導者の情熱だ。多くの報道陣の前で口にした以上、命をかけて「金3個」の公約を果たしてもらいたい。

(取材・文=樋口郁夫)




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