【特集】幼年レスリングの充実を求めて20年…小玉ジュニア・小玉美昭代表【2007年11月27日】








 どんなことでも「10年」というのは一つの区切りとなる。幼年レスリングの充実を求めてキッズ・クラブを立ち上げた千葉県鎌ヶ谷市の小玉ジュニア・レスリングクラブは、今年、その倍の創部20年を迎えた。

 警視庁勤務の小玉美昭代表
(右写真)は、当初は職業柄、練習時間を固定することができず、自らの勤務時間に合わせて、その都度練習時間を設定するというスタート。キッズレスリングが急成長した時期だっただけに、「当初は1回戦を勝つのが精いっぱい。よく、これで20年もったものですね。でも勝てる選手も出てきて、やってきてよかったと思います」と振り返る。

 小玉代表の目的は、強い選手を育てることだけではなく、底辺の拡大にあった。そこで実行したのが、幼年選手だけを対象とした大会だ。当時の少年大会は、今と違って「幼年の部」として、ひとくくりにし、階級だけをつくって実施していた。小玉代表はこのやり方に疑問を投げかけた。

 「私自身、レスリングを指導して実際に感じることは、小学生より幼児の方が1年の成長の差が大きいということである。ゆえに、試合に出場させるとなると、どうしても年長児にかたよりがちになる傾向は否めない。年少・年中の出場の機会が増えれば、幼児の選手全体の数も増え、小学生の試合と同様な組み合わせが可能となるのではないだろうか」(月刊レスリング1993年11月号)。

 全国初の試みとなった第1回鎌ヶ谷幼児大会には、皆川圭一郎鎌ヶ谷市長も出席のもと、4クラブ19人の幼児選手が参加して行われた。

■勝つ喜びがあるから頑張れる

 レスリングは肉体的・精神的にとてもきついスポーツだ。なぜ、そんな厳しいスポーツをやるかといえば、勝った時の喜びが他のスポーツの何倍もあるがらだろう。世界の舞台で連勝記録を続ける吉田沙保里選手は、幼少の頃を振り返り、「勝つ喜びがあったから頑張れた。出ると負け、の連続だったら、レスリングを続けていなかったと思います」と振り返っている。優勝のチャンスを広げることは、レスリングの競技人口増大につながるはずだ。

 小玉代表は「子どもたちは、小学生くらいになると野球やサッカーにはしってしまうのが一般的。幼稚園児にレスリングを教え、こんなすばらしいスポーツがあることを知らせることで、その後もレスリングを続けてくれる子が増えると思った。少しでも底辺拡大に尽力したかった」と話す。

 小玉代表の思いが伝わり、全国少年少女選手権で「幼年の部」が「年少・年中の部」と「年長の部」に分かれたのが1999年大会。やや時間がかかった感はあるが、今年の全国大会には、「年少・年中の部」に64選手、「年長の部」に99選手が出場した。これをひとくくりにやるのは無理があることは言うまでもない。見事な先見の明。年少と年中が分かれる日も遠くないかもしれない
(左写真=年々盛んになる幼年レスリング)

■約8000枚のチラシをつくって部員集めに奔走

 鎌ヶ谷幼児大会は今年で15年目を迎えた。当初の19人出場から50〜60人もの選手が集まる大会に成長。この大会に出場した選手の中から、全国少年少女選手権で優勝したり、高校の全国王者になった選手は数知れず。現在早大の主力として活躍している藤元洋平選手(当時松戸ジュニア)も、「この大会がデビュー戦だったはず」と言う。

 最近では、プロ格闘家の山本“KID”徳郁選手の長男もこの大会でレスリング・デビューを果たしている。歴史を積み重ねたことで注目も高くなり、その意義も浸透していけば、一段と大きな大会に発展していく可能性はあるだろう。

 小玉代表も勤務先の部署が変わり、現在は土・日曜日に定期的に練習することができるようになった。そのこともあって部員数は42人へ増えたが、選手集めも大変だった時期もあった。その時は約8000枚のチラシを作り、鎌ケ谷市の全小学校にお願いして子どもたちに配布して回るという努力で乗り切ったという。

 11月10日に町田市で行われた東日本少年少女選手権では、昨年の6階級優勝からやや成績を落として2階級優勝にとどまってしまったが、11選手がメダルを取る活躍。職業上の時間的制約を乗り越えながらも20年の歴史を刻んだ小玉ジュニアは、これからも発展していくことだろう。



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