【特集】4年がかりの初出場も報われず! しかし勝負はこれから…白根・林雄一監督【2007年3月27日】







 開催権として3校出場できたのが、昨年から2校となった新潟県。その新潟から、創部4年で初出場を果たした白根(しろね)は、初戦で北稜(熊本)に3−4で無念の黒星。部員が5人で55kg級と115kg級に選手をおくことができない状況での敗戦。実際に闘った試合では3勝2敗と勝ち越しただけに、まずまずのスタートを切った。

 林雄一監督(1994年全日本選手権グレコローマン62kg級優勝=
左写真)は「ポイントゲッターが確実に取ってくれた」と話し、初陣としては及第点といった表情。60kg級の選手が開会式の前に体調不良で倒れてしまったために、あとひとつが取れず、「これは私の責任。指導力が足りなかった」と振り返った(右写真:選手に声援を送る林監督)

 新潟市から車で20分ほどの白根市(現在は合併により新潟市)に林監督がチビッ子から高校生までのレスリング・クラブをつくったのが2003年4月。最初は高校内にレスリング場のスペースをもらうことができず、消防署の空き部屋を間借りしてのスタート。「高校生が思い切り動くと、壁にぶつかってしまうような狭さ」の場所だったという。

 新潟・巻農高〜日体大という強豪チームで育ってきた林監督にとっては経験したことのない練習環境。「最初は強くするより、いかに練習させたかでした」と振り返る。「校内に練習場がないというのは、部員もなかなか集められないんですよ」と言う。

 「でも、新しくレスリング部をつくった監督は、誰もがこんな経験をしているんでしょう」と、必ず通らなければならない関門と受け止め、上を目指して努力してきた。2005年の夏にやっと高校内に練習場を確保することができ、ここから本格的な強化がスタート。今回の初出場へこぎつけた。

 悪条件の中ででも続けられたのは、「選手がよくやってくれたから」。自分が休みたくなっても、休ませてくれないくらいに必死で練習する選手たちを途中で見捨てることはできなかったという。父母の支えも、林監督の情熱を後押しした。東京のように交通網が発達しているわけではなく、JR線は通っていないし、夜7時をすぎるとバスもなくなる。父母の車での送り迎えがなければ、朝練習も、夜遅くまでの練習もさせることができない。毎朝わが子を学校まで送り、夜8時をすぎて迎えにきてくれる父母のためにも、頑張らねばならなかったという。

 巻農高卒業の林監督だが、出身は白根。レスリング不毛の地だったが、2009年にはまさに地元の白根で国体のレスリング競技が行われることになり、レスリングを根付けたいという気持ちも頑張れる要因だ。もちろん、故郷・新潟のレスリングの発展を狙う気持ちも強い
(左写真:監督が終わったあとは、着替えて競技役員へ=中央=。新潟県の監督は1人2役をこなす)

 チビッ子でやっていた選手が、必ずしも白根高にきてくれるわけではないし、ご他聞にもれず他のスポーツに流れる選手もいる。しかし、この4月に初めてチビッ子上がりの選手が入学してくることになり、一環強化も実りつつある。故郷に錦を飾るべく林監督の踏ん張りが続く。


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