【特集】若きレフェリーも世界へ飛躍!…本田原明審判員(自衛隊)【2007年3月12日】






 3月3〜4日にトルコ・アンカラで行われた「ヤシャ・ドク国際大会」。日本は若手選手を中心に「金1・銀2・銅1」を獲得し意地を見せた。奮戦したのは選手ばかりではなく、審判として参加した自衛隊の本田原明さん(33歳、鹿児島・鹿児島商工高=現樟南高=卒)も同じ。これが国際舞台でのデビュー戦だが、そう思えないほど堂々としたレフェリングを見せてくれた。

 試合後に判定に不満を持ってなかなか中央に歩み寄らない選手がいれば、強引に手首を取って中央へ呼び寄せる。試合後のレフェリーとの握手も、日本選手の場合は負けてもきちんと握手をしておじぎをするのが普通だが、外国選手は“平手打ち”のような握手をして判定に抗議する選手もいる。それであっても、ひるむことなくにらみつける。小さな体ながら、審判員に必要な威厳は十分。こうした審判のき然さを世界の舞台で見せることも、レスリング王国復活に必要なことだろう。

 マットサイドでは、先輩審判員に片言の英語で話しかける姿が随所で見られ、世界の舞台でもやっていける資質も十分感じられる。選手として達成できなかったオリンピック出場を目指し、確かな一歩を踏み出した。

 鹿児島商工高で和田貴広・日本協会専任コーチの2年後輩だった本田原さんは、1991年のインターハイ48kg級で優勝し
(右写真)、自衛隊体育学校レスリング班へ進んだ。95年の全日本選手権フリースタイル48kg級で4位に入賞。96年には全日本社会人選手権で優勝するなど、00年シドニー五輪に照準を合わせて順調に実力を伸ばしていった。

 しかし、96年アトランタ五輪期間中に行われた国際レスリング連盟(FILA)の総会で、10階級を8階級に削減することが決定。同年秋、最軽量級が54kg級にまで引き上げられてしまった。これは大きなショックだった。

 まず体重をアップしようと試みた。しかし、自衛隊の先輩の笹山秀雄選手(アトランタ五輪52kg級代表)が54kgで現役を続けることになった。笹山選手との実力を比較して考えてみると、54kg級ではどんなに体重を増やしても追いつかないと思われる壁を感じた。この時、23歳になったばかり−。48kg級があればまだ十分に続けられる年齢だったが、不本意ながらも選手活動を断念。宮原厚次監督に勧められて事務をもこなすコーチとしてレスリング班に残り、同時に審判員としての道を歩んだ。

 「高校時代から、引退したら審判をやりたい、と言う気持ちがあったんですよ」。予定より早まったものの、自衛隊に進んでいたことも幸いし、自分のやりたい道を続けられた。全日本社会人選手権などで経験を積みつつ、1999年に国内のA級審判資格を獲得。全日本選手権でもホイッスルを吹くようになり、ひとつの目標は達成できた。

 しかし国際審判の資格を取ったのは、その7年後の昨年だった。「最初は国内の審判で十分だと思っていたんですが…」と言う本田原さんだが、自衛隊は選手もコーチも海外へ行くことが多い。ルールの話になり、選手や他のコーチから「世界ではこうなんですよ」と言われると、返す言葉がなく、次第に忸怩(じくじ=恥ずかしい、悔しい)たる思いが出てきたという。

 「やるからには国際審判員を目指そう」。そう思ったのが3年前。昨年、やっと国際審判資格を受験する機会に恵まれ、11月に日本で行われた女子コーチクリニックの時に、来日した国際レスリング連盟(FILA)のマリオ・サレトニグ審判長から朗報(3級)を受け取ることができた。

 そして今回の国際舞台デビューへ
(左写真)。同じ技に対しても、いろんな国の審判のいろんな見方があって、勉強になったそうで、「選手から何か言われても、自分の経験を言うことができるようになりました」と言う。

 96kg級では地元のトルコ選手とロシア選手が試合中に殴り合うというトラブルがあり、この時はモンゴルの審判員が先に手を出したトルコ選手に即座にレッドカード
(右写真)。観客の大ブーイングにもひるまず、「これぞ審判員」というき然としたレフェリングを見せてくれた。日本では考えられないアクシデントの対処法などを経験でき、いろんな面で勉強になった大会のようだ。

 審判間で話す言葉は英語(大会によってはフランス語など)。しかし、「どの審判もていねいに指導してくれた。『何だ、英語もしゃべれないのか』と見下す審判はいなかった。これなら何とかやっていけるかな、と思った」と、考えていたほどの困難はなかった。反面、「やはり英会話の勉強が必要だと思いました。指導してくれても、分からないことがありました」と話す。帰国後は“駅前へ留学”か。

 国際審判は3級から1級までランクがあり、オリンピックや世界選手権を裁けるのは1級(日本は現在7人)。本田原さんがオリンピックの舞台に立つには、日本協会審判委員会の推薦を得て昇級試験の大会へ参加。そこでFILAに認められて、2級、そして1級まで上がらねばならない。

 上の級に上がっても、「年2回」など決められた回数だけ大会に参加しなければ落ちてしまうので、民間企業に勤めている人にとっては、ちょっと厳しい道のり。教員でも時期によっては肩をすぼめて行くのが現状。しかし自衛隊の場合は仕事として遠征できる。宮原厚次監督は「強化のためには、審判の正しい知識が必要」として本田原さんの昇級を全面的にバックアップする構え。日本協会審判委員会の内藤可三委員長、斎藤修副委員長とも、やる気のある若手審判員の派遣・育成に異論はなく、むしろ「やらなければならない」−。

 本田原さんは、「順番というものもありますから」と、先輩審判員に気を遣いつつも、「2016年に東京でオリンピックをやることになれば、やはりかかわっていたい」という希望を口にする。不本意な形で断念した夢だが、その目標が再度見えてきた。選手だけでなく、若手の審判も世界へ飛躍し、“レスリング日本”をしっかりアピールしてもらいたい
(左写真:世界の審判へ仲間入りした本田原さん=前列左から3人目)

(取材・文=樋口郁夫)


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