【特集】4ヶ月で五輪選手4人を撃破! 男子フリー74kg級に風穴開けた萱森浩輝2007年2月11日】







 プロ格闘家の山本“KID”徳郁(KILLER BEE)の参戦もあり、大盛況に終わった2006年度天皇杯全日本選手権。MVP(天皇杯)に7連覇を達成した男子グレコローマン60kg級の笹本睦(ALSOK綜合警備保障)が選ばれ、各スタイルの最優秀選手には男子フリースタイルが60kg級の湯元健一(日体大)、男子グレコローマンが84kg級の松本慎吾(一宮運輸)、女子が55kg級の吉田沙保里(ALSOK綜合警備保障)と順当に選ばれた。

 もし“殊勲賞”という賞があるならば、男子フリースタイル74kg級で小幡邦彦(ALSOK綜合警備保障)の8連覇を阻んだ萱森浩輝(かやもり・こうき=新潟・新潟県央工高教、
左写真)を挙げたい。日体大出身で社会人2年目。不動の王者だった小幡を破ったのだから、さぞかし数々のタイトルを手に入れていると思われるが、昨年11月の全国社会人オープン選手権で優勝する前は、2002年のJOC杯ジュニアオリンピック・フリースタイル69kg級優勝が唯一の獲得タイトル。

 新潟・三条工高時代(現新潟県央工高)は全国高校選抜大会の3位が最高。日体大へ進み、新人戦や全日本学生選手権で表彰台の経験はあるものの、優勝には恵まれず、4年生の時の全日本学生選手権はベスト16。団体戦では同期の加藤陽輔(現日体大助手)とのレギュラー争いに敗れ、正規メンバーの一員にはなれなかった。

 弱くはないが、強くもない−。そんな選手は、大学卒業後、レスリングを“競技でやるか、趣味でやるか”という選択を迫られる。新潟県出身の萱森は、2009年の新潟国体の強化選手として故郷に戻ることができ、母校の教員として“競技”のレスリングを続けることができた。

 「地方在住では強くなれない」と言われるが、それは必ずしも当てはまらない。最近では、フリースタイル84kg級の山本悟(岡山・烏城高校教)が、大学卒業後に学生時代よりも強くなり、2005年の世界選手権代表の座をつかんだ。萱森も高校生を相手に毎日練習し、試合が近づくと週末を利用して日体大まで出げいこへ。「パワーをつければ、社会人として地方に行っても伸びると思っていました。最近は日体大に出げいこする度に、自分が強くなっていると実感できています」と、自身の成長を肌で感じている。

■名前負けした2005年の小幡戦で生まれ変わった

 レスリングで必要なのは、技術はもちろんだが、“オレが一番”という強い精神力だ。それさえあれば、少々実力が劣っていても勝つことができる。しかし萱森は2005年の全日本選手権の準決勝で、戦う前から名前負けをしてしまったことがある。その相手が小幡だった。「アテネ五輪代表ですし、雲の上の存在でした」。

 0−1、0−2でストレート負けしたあと、「テクられる(テクニカルフォールされる)と思ったら、意外に接戦で、ポイントも取れそうだった」と気づいたが、後の祭り。もし、もっと強い気持ちで挑んでいたら、小幡の連勝記録は1年前に止まっていたかもしれない。そして萱森は確信した。「自分は強くなっている。もっと練習すれば次は小幡さんにも勝てるかもしれない」と−
(右写真:2005年全日本選手権の表彰式。右端が萱森)

 マットに上がったら、今までの実績は関係ない。今の自分の力が上ならば勝つ、下なら負ける。勝負とは、ただそれだけで単純だ。もう相手が誰であろうと迷わない。自分の力を出し切るだけだ。

■不思議と続いた五輪選手との対戦。その闘いの中で実力アップ

 五輪選手の小幡に名前負けしてから約10カ月後、ここから不思議な出来事が起こり続けた。やたらと五輪選手と対戦する機会が多くなるのだ。10月の兵庫国体では、1996年アトランタ五輪フリースタイル74kg級銅メダルの太田拓弥(早大コーチ)と準決勝で対戦して勝利。11月の全国社会人オープン選手権では、決勝で2004年アテネ五輪フリースタイル66k級代表の池松和彦(K−POWERS=2003年世界3位)に勝った。「自分は太田先生と違って毎日練習しているわけだし、池松先輩は憧れの選手ですけど1階級下の選手ですから、勝たなくちゃいけなかった」。

 どちらも世界の表彰台に立った選手。だが、相手の実績にひるんでしまった萱森は、もういなかった。逆にこれらの勝利を自分の自信に変えていった。

 そして北京五輪のキップをかけて戦いの火ぶたが切って落とされた全日本選手権。2回戦でKIDと同様にプロ格闘家の参戦としてマスコミから注目された2000年シドニー五輪フリースタイル63kg級代表の宮田和幸(フリー)を下した
(左写真:宮田=赤=を攻める萱森)。「カメラマンがたくさんいるなあ。勝ったら少し有名になれるかな」と振り返る余裕すらあった。五輪選手を3人下して弾みをつけ、遂に準決勝で小幡にリベンジするときが来た。
 
 第1ピリオドは0−0のあと、クリンチで防御をしいられたが、30秒持ちこたえてものにすると、会場の視線は小幡−萱森の対戦に釘付け。第2ピリオドは終了間際にテークダウンを奪ったかに見えたが、タイムアウトでポイントは認められず、ピリオドスコアは1−1へ。内容は萱森が押し気味に進めるうちに第3ピリオドに突入した。

 運命のラストピリオド。両差しから振り、小幡が前のめりになったところをバックにまわって1ポイントを奪取。最後、小幡のタックルでしりもちをついて失点しそうになるが、ビデオ判定の結果、審判が挙げたのは萱森の手だった
(右写真:小幡=赤=を破り、決勝進出を決めた萱森)。KIDの試合に勝るとも劣らない歓声が飛びまくり、小幡の全日本選手権の連覇記録が止まってフリースタイル74kg級に新しい風が吹き込んだ。

■勘違いで優勝はお預け…「もっと強くなります」

 タイトルにほとんど縁がなかった萱森が社会人2年目で全日本を獲る―。ここまでくれば、萱森自身もサクセスストーリーを信じていた。しかし決勝の長島和幸(クリナップ)戦は第3ピリオドの残り11秒で逆転負け。2−2のあと、無理にタックルに行ったところを返されるという自滅で
(左写真)、3−4とされてしまった

 このピリオドは、萱森がタックルで攻め、長島がタックル返しでしのぎ、両者に2点が入った。明文化されてはいないが、運用されているルール上では、ひとつの攻防で両者同時に2点が入り、そのまま試合が終了した場合は、技を仕掛けた選手の勝ちとなる(注:タックルとタックル返しの間に一呼吸あった場合は、タックル返しを仕掛けた選手がラストポイントを取ったことになり、返した選手の勝利となる)。したがって、2−2のままなら萱森の手が上がったわけで、無理に攻撃する必要はなかったケースだった。

 無理に攻めた理由を聞くと「スコア2−2ならば、自分の負けだと思ったんです」と衝撃告白。「今思えば、なんで最後攻めに行ったんだと悔しくなりますよね」と自分の早とちりに落胆しつつも、それ以上に「オレ、伸びている、成長している」という実感の方が大きいという。

 小幡を倒し、長島とも互角にやりあった。ことしの世界選手権代表争いは、長島が一歩リードした形になったが、成長著しい萱森には勢いがあり、まだ分からない。小幡もこのまま黙っているはずがない。小幡の長期政権から一転して激戦階級となるのは必至だ。

 それとは別に、萱森は北京五輪を目指す器かそれとも2012年ロンドン五輪までにじっくり仕上げるべきなのか―。萱森が尊敬する先輩の池松に聞くと、「昔はよくパワーでやられていたけれど、最近の練習を見ると優勝できる力がついてきた。ここに海外での経験を積めば、いま五輪に出ても闘えると思う」と萱森を一押し。

 一方、五輪という言葉に対して萱森は慎重だ。「僕はまだチャンピオンじゃないし、五輪を目指すとは簡単にはいえません」と遠慮気味。でも確実に強くなっている。目の前の試合を一つ一つ勝って行けば、最終的に五輪のキップは手に入る。萱森浩輝のシンデレラストーリーはまだ始まったばかりだ。



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