【特集】日本重量級の復権を願う男が、レスリング界に戻ってくる!?…五輪3度出場の本田多聞さん【2008年11月15日】



 11月8日に町田市で行われた東日本少年少女選手権の会場に、五輪に3度連続で出場し、日本重量級を支えた本田多聞さん(日大〜自衛隊出身=現プロレスリング・ノア)の姿があった。1週間前に都内で行われた日大・富山英明監督の「国際レスリング連盟殿堂入りを祝う会」に来場。日大時代の同期生の成富利弘・安部学院高監督(王子キッズ代表)らと久し振りに再会し、「レスリングの大会にも来いよ」と誘われた。

 町田市は自宅から近いこともあり、さっそく足を運んだという(右写真=日大の同期生。右から本田さん、成富利弘監督、仙北谷和成さん)。レスリングの大会に来るのは10年ぶりくらいとのこと。「私の人生の幹になっているのがレスリング。今の自分があるのはレスリングのおかげです。見ていると、燃えてくるというか、レスリングっていいな、という気持ちになりますね」という。

■五輪3度連続出場で日本重量級を支えた本田さん

 本田さんは茨城・土浦日大高校時代に国体3連覇を達成するなど、早くから逸材として注目された選手。ソウル五輪で金メダルに輝いた小林孝至さんと同期で、一緒に日大へ進学。小林さんが最軽量級の48kg級でずば抜けた成績を残したのに対し、本田さんはフリースタイル100kg級で国内敵なしの選手へ。1983年には大学2年生にてアジア選手権優勝。1984年ロサンゼルス五輪では5位に入賞し、88年ソウル五輪にも出場した。

 130kg級に上げて92年バルセロナ五輪にも出場(左写真)し、その後、プロレスの世界に身を投じた。「日本重量級最強の選手は?」という話題になると、必ず名前が出てくる選手。日本の重量級に一時代を築いた。

 当時としては珍しいキッズ・レスリングの出身選手。「当時(昭和50年以前)は少年の大会などなく、社会人選手権の一部に少年の部があったんです。今の大会の規模を見てびっくりです」と、700人を超える選手が参加した少年大会の盛況ぶりに驚きの表情。自分の時代よりずっと高度な技が飛びかっていることにも驚かされたという。

 同時に、自分たちの世代の人間がキッズ・レスリングの監督やコーチになって一生懸命に子供たちを指導しているのを見ると、「自分もやらねば、という気持ちになります」とも言う。成富代表からキッズ教室への参加を誘われており、「自分のなしてきたものを、伝えたいという気持ちになりました」と、いずれ足を運びそうな雲行きだ。

 ただ、五輪3度連続出場の選手がキッズの指導だけでは、もったいない話。「全日本チームで指導したい気持ちは?」と聞くと、「協会のコーチで一生懸命になっている人がいますから、いきなり入っていくのはね…」と遠慮しながらも、「最近、重量級がオリンピックに出ていないですよね。呼んでもらえるなら、お手伝いしたいという気持ちはあります」と言う。

■日本重量級の不振は「寂しい」と本田さん

 五輪に予選が導入されたのが92年バルセロナ五輪から。この時、本田さんはアジア選手権で3位に入り、出場権を獲得して3度目の五輪のマットに立った。しかし、その後の4度の五輪でフリースタイルの最重量級は予選を通過できず出場していない。やはり「寂しい」と言う。

 本田さんの時代は、伊達治一郎さん(1976年モントリオール五輪フリースタイル74kg級金メダリスト)や太田章さん(1984年ロサンゼルス五輪・88年ソウル五輪フリースタイル90kg級銀メダリスト)といった中重量級に実績を残した指導者や先輩がいて鍛えられた。プロレスへ行っていた谷津嘉章さん(1976年モントリオール五輪フリースタイル100kg級6位)も時に練習に来てくれ、相手をしてくれた(右写真=3度の五輪のチームメートであり、先輩の太田章さんとも再会)

 しかし本田さんがプロレスへ行ったあとは、全日本チームの重量級に五輪出場を経験した指導者がいなかった。「自分の培ってきたものを伝えておく必要があるような気がします。柔道のように、やはり重量級が強くなければ」と、遅ればせながら五輪代表に育ててもらった恩返しをしたい気持ちになっているようだ。

 軽中量級と重量級では、練習方法が違うはず。本田さんの体が動くうちに、そのノウハウを伝授してもらわないと、重量級は衰退の一歩をたどってしまうかもしれない。重量級復権のために、ぜひともその力を借りたいものだ。

(文・撮影=樋口郁夫)


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