【特集】北京オリンピックへかける(6)…女子72kg級・浜口京子(ジャパンビバレッジ)【2008年8月3日】






 期待度・知名度は依然として断トツだ。女子72kg級の浜口京子(ジャパンビバレッジ=左写真)。6月中旬に共同通信と加盟社とで構成する日本世論調査会が実施した全国世論調査(対象3000人)の「北京五輪で活躍を期待する選手」という項目で、伊調姉妹、吉田沙保里を上回った。

 2年連続の世界チャンピオンとして挑んだ4年前のアテネ五輪と変わらない周囲の期待と注目。開会式の騎手を務めた前回に比べ、今回は競技に専念できる。選ばれた五輪選手の中のさらに特別な選手が手にする栄誉は1回で十分だ。北京五輪は、過去114の選手・団体が手にしている金メダルを取りにいく。

 伊調姉妹や吉田沙保里が体のどこかを負傷をしているのとは対照的に、ほぼ無傷の状態でここまできた。「オリンピックが近づいてきて、気が引き締まってきました」と口にし、気持ちは徐々に高まっていく。「4年前に比べると落ち着いている」とも話し、自己を見失ってはいない
(右写真=全日本合宿で練習する浜口)

 今回がオリンピックの金メダルを取る最後のチャンス? 父・アニマル浜口氏は、勝っても負けても観客席から「ロンドン!」をコールすることもほのめかしている。「レスリングが好きだ」と公言している浜口だけに、簡単にマットから離れられないような気もする。だが、今は今年限りと思っている。そうでなければ、厳しい道を進んでくることはできなかった。

■アテネ五輪チャンピオンは消え、打倒スタンカ・ズラテバ(ブルガリア)に集中

 4年周期のオリンピックでは、金メダルを目指す選手は4年をかけて世界の情勢を見極め、強豪と肌を合わせて自分の実力を判断し、ライバルを研究する。アテネ五輪が終わり、北京五輪を目指すことを決めた浜口の目に映っていたのは、五輪金メダリストの王旭(中国)だった。

 だが、王旭は両肩の手術の影響で調子を取り戻せず、北京のマットに立つことなく浜口の視界から消えた。2005年世界選手権決勝で敗れたアイリス・スミス(米国)も、その翌年以降、国内予選を勝ち抜けずに単発花火に終わった。

 ほかに、オヘネワ・アクフォ(カナダ)とオルガ・ジャニベコワ(カザフスタン)に黒星を喫しているが、地力で上回っていることは明白。4年間の闘いを経て、浜口の目の前に立っているのは、2年連続世界チャンピオンのスタンカ・ズラテバ(ブルガリア=
左写真)ただ1人と言っていいだろう。

 2006年の世界選手権では明らかに故意と思える頭突きを仕掛けられて敗れ、昨年の世界選手権では国際レスリング連盟も認めた誤審があって黒星を喫した。しかし、反則だけの選手ではない。2006年のゴールデンGP決勝大会でアニータ・シェツレ(ドイツ)に敗れて以来、2年間、白星街道を突き進んでいる事実が、世界の一流選手であることの証明だ。

 ブルガリアでズラテバをマンツーマンで指導しているのはシメオン・ステレフ(1981年62kg級世界王者ほか3度欧州王者)で、現役時代は全日本の栄和人監督やジャパンビバレッジの赤石光生コーチ(1984年ロサンゼルス五輪銀メダリスト)のライバルだった選手。ステレフは他に2006年フリースタイル55kg級世界王者のラドスラフ・ベリコフや、同年の世界選手権で世界V8のブバイサ・サイキエフ(ロシア)を破ったペトロフ・ガネフをもコーチしており、指導者としての評価は高い。

■「私もプロレスラーのアニマル浜口の娘」

 ズラテバは2006年からステレフに師事し、急速に力を伸ばした。世界チャンピオンの心技体をしっかり吸収したのだろう。必殺技は飛行機投げ。昨年の世界選手権では浜口も見事にかかってしまった
(右写真)。この飛行機投げを何としても防がなければならない。

 金浜良コーチ(ジャパンビバレッジ)は、ズラテバの飛行機投げを「前へ前へとプレッシャーをかけて追い込み、相手が嫌がって前に押し返してくるところをタイミングよく掛けてくる」と分析。投げ技というのはすべてその理論でかかるのだが、ズラテバの相手の力を利用するテクニックはすばらしいものがあるという。

 対策は、まず相手に押されないこと。自分の方から圧力をかけ、崩したりしてズラテバに守勢に追い込む。浜口は「パワーは自分の方が上」と話しており、このことは決して難しいことではないだろう。2分間、その集中力を続けることと、「0−0で試合が進んだ時の終盤に焦りが出ないこと」(金浜コーチ)が要注意。クリンチ勝負に持ち込みたくないのはだれも同じはずだが、焦っては元も子もない。

 ズラテバがステレフの技術を学んだのなら、浜口も赤石コーチのテクニックを学んでいる。3月のアジア選手権では左右からの片脚タックルを披露。闘いの幅は間違いなく広がっている。2分間(あるいは4分間、6分間)の闘いで、一瞬でも隙や焦りを見せた方がポイントを失ってしまう緊迫した試合が展開されそうだ。

 浜口はズラテバを「やんちゃ」と評した。だが、「私もプロレスラーのアニマル浜口の娘。豪快さでは負けない」と語気を強めた。パワーの勝負でも、技の勝負でも決着がつかなければ、最後は精神力の勝負。“アニマル魂”を爆発させる時は、あと少しだ。

■応援団と心をひとつにして金メダルに挑む!

 7月28日に都内で行われた日本選手団の壮行会では、歌手の平原綾香さんが「ジュピター」を歌い、日本選手を応援した。浜口のお気に入りの曲で、入場曲として使っている歌。曲以上に、歌詞が浜口の人生そのものを描いているから心に響くのかもしれない。

♯Every Day I listen to my heart ひとりじゃない
  深い胸の奥で つながってる


 浜口の行く道には、常に父がいて、母がいて、家族がいて、応援団がいた。だれよりも多くの声援が浜口を後押ししてきた。北京の会場でも、浅草応援団を含め大勢のサポーターが観客席に陣取るだろう。だれもが、闘う浜口と心をひとつにして
(左写真=3月のアジア選手権で優勝し応援団に迎えられる浜口)

♯夢を失うよりも悲しいことは 自分を信じてあげられないこと
  愛を学ぶために孤独があるなら、意味のないことなど起こりはしない


 世界チャンピオンの座は2003年を最後に他人に明け渡したままだ。だが、自分を信じ闘ってきた。

 「世界一は2度と自分の手元に戻っては来ないかもしれない」という不安や孤独感に襲われたこともあっただろう。だからこそ、周囲の人の愛情をしっかりと受け止められる。この4年間の経験は、夢を持ち続けるために神様が与えてくれた試練。バリバリの金メダル候補という声はなかなか聞こえてこない。でも、周囲の声はどうでもいい。夢は失ってはいないのだから。

♯私たちは誰もひとりじゃない ありのままでずっと愛されている
  望むように生きて 輝く未来をいつまでも歌うわ あなたのために


 北京五輪を最後にマットを降りるかどうかは分からない。ただひとつ言えることは、どんな形であってもレスリングとつながっていくことだ。「レスリングが好きだから」。浜口の口から何度も出た言葉。北京五輪のあとも、レスリングを愛する人たちとともに、輝く未来を目指して歩んでいくことだろう。

 だからこそ、最も強烈に輝くメダルを手にしてほしい。浜口が愛したマットの上で。

(文=樋口郁夫)


《iモード=前ページへ戻る》

《前ページへ戻る》