【特集】北京オリンピックにかける(2)…男子グレコローマン60kg級・笹本睦(ALSOK綜合警備保障)【2008年7月27日】






 2006年アジア大会で金メダル、昨年の世界選手権で銀メダル。加えて、2005年夏からの3年間でアテネ五輪の1−4位の選手を破っている。男子グレコローマン60kg級の笹本睦(ALSOK綜合警備保障=左写真)は紛れもなく北京五輪の金メダル候補だ。過去2度の五輪で8位(2000年シドニー大会)、5位(2004年アテネ大会)という成績とともに、男子で金メダルを最も近くに見据えている選手といっていい。

 6月の欧州遠征で右ひざの内側じん帯を痛め、その後、左ひざもそり投げの際に痛めてしまった。「しゃがみこむ動作ができず、投げ技、パーテールポジションからのリフト技、タックルができない」とのことで、7月中旬の長野・菅平での合宿は別メニューの練習が目立った。

 レスリング選手は大なり小なり、けがを負っているもの。金メダルを取ったドーハ・アジア大会の時は「足首を痛めていた」が、その時に比べれば今の方ができているという。がむしゃらに練習すればいい年齢ではないだけに、技の研究に時間を費やし、試合へ向けてのエネルギーを蓄える期間ととらえてもいいのではないか
(右写真=嘉戸洋コーチとガッツレンチの研究に力を注ぐ笹本)

■アテネ五輪の誤審は「過去のもの」。次々と倒すべき目標が現れた!

 アテネ五輪では金メダルを“奪われてしまった”。決勝トーナメントの1回戦。五輪3連覇を目指していた前年の世界王者アルメン・ナザリアン(ブルガリ)との一戦は、終盤、2−3から笹本がこん身の力をこめた俵返しで勝負をかけた。

 しかし、ナザリアンは笹本の太ももに左手をタッチしてカットする反則で防御。レフェリーはすぐにナザリアンの反則を指摘したが、ビデオチェックの末、最終的に国際レスリング連盟(FILA)のマリオ・サレトニグ審判委員長の判断でナザリアンにポイントが入り、笹本の逆転勝利はならなかった。

 別角度からのビデオテープを見せられたサレトニグ会長は、自らの誤審を認める発言をした。悔やんでも悔やみ切れない誤審による黒星。その3年後、世界2位にはい上がった笹本のリベンジロードは、この誤審から始まったのだろうか
(左写真=誤審で負けにされ、がっくりとうなだれる笹本)

 だが、笹本は意外にもこの誤審を引きずってはいなかった。「あそこで投げていれば勝っていた、という悔しさはありました。夢の中にも出てきました。でも、いつの間にか消えていきましたね。1年はかからなかった。忘れたわけではないけど、4年間も心に残るものじゃないですよ」。

 翌年夏の「ピトラシンスキ国際大会」でナザリアンを破ったことと、別の新しい目標が次々と出てきたためであるようだ。2005年世界選手権ではエウセビウ・ディアコヌ(ルーマニア)のリフト技になすすべなく敗れた。2006年世界選手権では明らかに格下であるヌルハキト・テンキズバエフ(カザフスタン)に防御のフライングというミスを犯して初戦敗退。

 昨年は決勝でダビド・ベディナーゼ(グルジア)にラスト10数秒を守れずに金メダルを逃した。倒さねばならない新たな目標の前に、アテネでの悔しさは奮起のためのエネルギーにはなりえなかった。「常に前を向いているから?」という問いには、「そんなカッコいいもんじゃないですよ」と笑ったが、負けは負けと受け止める姿勢がなく、「誤審がなければ勝てた」という逃げ道をつくってしまっては、過酷な練習に取り組むことはできなかっただろう。

 日体大の藤本英男部長は、アテネ五輪から帰国した笹本に「誤審で負けたんじゃない。前半にポイントを取られたから負けたんだ」と言った。「結果が変わらないことを、いつまでもガタガタ言っていては成長がないから」と説明する。笹本も「その通りだと思いました」と、前半にがぶり返しでポイントを失ったことが敗因と思うようになったという。

■13年前にも“誤審”で負けた! しかし、引きずることなく上を目指した

 笹本は神奈川・向上高校を卒業するまでは全国一のない選手だった。そんな選手が、世界の頂点を目指すようになった転機の試合は、高校の最後の試合で受けた誤審ともとれる黒星だったと思われる。1995年の福島国体でのこと。笹本は準決勝でその2ヶ月半前に1年生でインターハイ王者に輝いた野口勝(鹿児島・鹿屋中央高)と対戦した
(右写真:1年生インターハイ王者を攻める笹本=青)。笹本は準決勝でその2ヶ月半前に1年生でインターハイ王者に輝いた野口勝(鹿児島・鹿屋中央高)と対戦した。同点で迎えた終盤、チェアマンとジャッジが野口にパッシブの合図をし、この時点で試合がストップするはずだった。
 
 ところがレフェリーはマットサイドの2審判のアクションに気がつかず試合を止めなかった。その直後に返し技を受けてしまい、ポイントは2−4へ。3審判のうち2審判の同意で判定が決まるので、2審判がパッシブを示した時点で本来なら試合を止め、笹本がパーテールポジションかスタンドかの選択をして試合は再開するはずだった。そうなれば笹本が返し技を受ける可能性はなく、この時点で勝敗は決まらなかった。

 しかし、笹本陣営の抗議も実らず野口の手が上がった。アテネ五輪での誤審試合のあと、「負けて泣いたのは高校の時の国体以来」と話した試合が、この一戦だった。

 笹本は13年前のこの誤審試合の時も「あまり引きずってはいなかったですね」と振り返る。「誤審だと言ってくれる人もいたけど、『あれは仕方ない』とも言われたし…」。ここでも自分の負けを認めていた。だからこそ、日体大へ進んでからの飛躍があった。

 誤審された悔しさがエネルギーになったのではない。その種のエネルギーは、どんなに強烈であっても、いつしか消えてしまうもの。世界一にたどりつくパワーにはなりえない。「誤審を超える強さを身につけなければ頂点に立つことができない」という姿勢こそが、世界の最高峰へ到達できるエネルギーだ。結果を真摯に受け入れた笹本なればこそ、その後の成長があったのだ
(左写真=グレコローマンの日本選手として12年ぶりに世界選手権の表彰台に上がった笹本)

■誤審に泣かされた男の最後の勝負が始まる!

 いま、そのエネルギーの最後を燃やし尽くし、オリンピックの金メダルを狙う。「センスがないので、人より多くの練習をやってきた。本気でやれる大会はこれが最後。あれをやっておけば、といった悔いは残したくない」。けがによって、五輪前に練習量はやや減ってしまうことになりそうだが、これまで積み重ねてきた練習量と、そこから生まれた自信は揺るぐことがないはず。

 誤審に泣かされながらも、力強くはい上がってきた男の最後の勝負が始まる


(文=樋口郁夫)


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