【特集】大激戦を得てフリースタイル初の五輪キップを獲得…男子フリー55kg級・松永共広【2008年3月20日】








 判定をめぐってのビデオチェックが2度、いずれも長い時間にわたって行われた。そんな大激戦を得て、松永共広(ALSOK綜合警備保障)の手が上がった男子フリースタイル55kg級の決勝戦(右写真=勝利が決まった直後の松永)。日本の男子フリースタイルがやっと手にした北京五輪行きキップ。キッズ時代から数多くの金メダルを手にしてきた松永が、日本の伝統を復活すべく最初の扉をこじ開けた。

 日本選手席と応援席に小さくガッツポーズをして声援に応えた松永。前日、60kg級の高塚紀行(日大)が目の前にぶら下がっていた出場権を逃しただけに、周囲の喜びもひとしお。涙こそなかったものの、2006年に日本代表もれを経験したエリートはそのつまずきでより大きくなって北京オリンピックへ向かうことになった。

■クリンチの防御を強いられながらも、最後に逆転勝利

 予選から厳しい闘いの連続だった。「体調は悪くなかったが、動きがよくなかった」と言う。やはり五輪がかかる大会のプレッシャーか。その苦しさは決勝でも続き、「崩しができず、距離を取られて頭を押さえられた」と振り返った。脚をさわらせてしまうことが多かったのは確かだ。

 まして地元の韓国選手が相手で、声援や地元びいき判定という敵もあった。実際に、松永が腕を取ってフォールを狙った時、不可解な「ブレーク」がかかったりもした。“中東の笛”ならぬ、韓国と友好国のキルギス審判による“謎のブレーク”。

 そんな困難とも闘い、第2ピリオドにラスト2秒でタックルを決めてピリオドスコア1−1に持ち込んだ。その粘りが、第3ピリオド0−0からのボールピックアップに負けながら、レッグホールドでの執念の勝利につながった。

 「第1ピリオドのクリンチで、お尻をついただけでポイントを取られた。お尻をつかないで返しにいこうと思った。ついてしまったけど、思い切って返した」。いったんは相手のポイントとされたクリンチからの攻防は
(左写真)、国際レスリング連盟審判委員長が加わってのビデオチェックの末に松永のポイントへ。あらゆる困難に負けずに北京五輪行きのキップを目指した松永に、勝利の女神が最後に微笑んだのだろう。

■敵はまだ多い。満足はできない!

 「小さい頃からの夢だった」と言うオリンピックのマット。「具体的に、いつ頃から?」という問いに、「オリンピックというより、世界チャンピオンになりたいという気持ちの方が強かったんです」と言う。

 そう、松永に期待されるのは五輪出場権獲得などではない。フリースタイル・チームのエースとして北京五輪のマットを盛り立て、自らが表彰台の一番高いところに立たなければならない。世界チャンピオンになることは、現在までに実現できなかったが、それ以上に価値のあるオリンピック・チャンピオンこそが、今の松永の目指す目標のはずだ。

 「今回出てこなかったアジアの強豪もいます」と、もっと練習を重ねなければならないことは十分に自覚している。その脳裏にあるのは、2003・05年世界王者のディルショド・マンスロフ(ウズベキスタン)だろう。まして世界にはロシアやブルガリアに強豪がおり、今回の金メダルと内容で満足していては、北京での金メダルは夢でしかない。

 マンスロフとの実力差は、2005年のアジア選手権に始まり、昨年の世界選手権までに闘う度に縮まっている感触がある。世界のトップは決して手の届かない場所ではない。

 「苦戦しながらも、落ち着いていた。地力はある」と富山英明強化委員長。2006年のつまずきが松永を大きくさせたように、今回の苦戦の末の優勝は松永をさらに大きくしてくれるに違いない。

(文=樋口郁夫、撮影=矢吹建夫)



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