【特集】米国女子チームを支える強力コーチ! 八田イズムを伝える八田忠朗氏【2008年1月31日】







 吉田沙保里の連勝記録が止まった。歴史的勝利を挙げたのは米国のマルシー・バンデュセン。思えば2000年シドニー五輪で、12年間無敗だったアレクサンダー・カレリン(ロシア)の連勝をストップさせたのも米国選手(ルーロン・ガードナー)だった。

 米国人の意地を示した2つの歴史的勝利といったところだが、今回のバンデュセンの勝利の陰には、日本人の力が大きく作用していたのではないか。日本レスリング界生みの親、八田一朗・元日本協会会長の次男、米国在住40年以上の八田忠朗氏(65歳=
左写真)が米国の女子五輪代表チームのコーチになることが昨年11月に決まり、この大会からチームに同行。選手に“レスリングの真髄”を教えていることが予想されるからだ。

■能力社会・実績社会の米国で4度目の五輪コーチへ

 八田氏は神奈川・慶応高校時代の1960(昭和35)年にインターハイ・フライ(52kg)級王者へ。卒業後に米国へ渡り、オクラホマ州立大へ入学して1965年に日本人で3人目の全米学生王者(115ポンド級=52.2kg級)に輝いた。全米選手権は2位が3度でチャンピオンにはなれなかったが、その後指導者として力を発揮し、1988年ソウル五輪、1992年バルセロナ五輪、1996年アトランタ五輪の3度連続で米国フリースタイル・コーチを務めた。

 米国史上最高のレスラーと言われ、フリースタイル62kg級で五輪2連覇(1988・92年)を達成したジョン・スミスは大学の後輩であり、全米チームのコーチと選手の間柄。能力社会であり結果がすべて、年功序列や情実がほとんど入らない米国で、男子チームだけで3度の五輪コーチとなり、今回、女子の五輪コーチに選ばれた事実は、八田氏の指導者としての優秀さの証明以外に何ものでもないだろう。

 同氏は「レスリングはパワーではない」という確固たる信念を持っており、バルセロナ五輪前後に不振を極めた日本のレスリング界に、「日本選手はパワーで劣るから…、という気持ちを持ってはならない。実戦練習を数多く」と熱くアドバイスを送った。合気道のように相手の力を利用して技をかけるのがレスリングの真髄であり、てこの原理を使えば、パワーの劣る選手がパワー十分の選手を倒すことができるのがレスリングだ。

 バンデュセンの吉田戦の勝利は、第1、2ピリオドとも返し技が決め手だった。「選手に指導している一番重要なことは?」という問いに、明確な答を返してくれなかったが、バンデュセンのカウンター攻撃は八田コーチ直伝の戦術ではなかったかと思う
(右写真=選手にアドバイスを送る八田コーチ)

■「レスリングはファイト(ケンカ)! いつでも闘うという気持ちが大切」

 北京五輪での米国チームの目標は「メダル4個」だ。「金メダル4個と言いたいところですけど、それはちょっと厳しいでしょうね。日本のレスリングはオヤジがアメリカから持ってきたものですけど、今は日本のレスリングを研究しています」と言う。

 八田一朗会長といえば、真夜中に選手をたたき起こして練習させたり、ライオンとにらめっこなど、厳しくかつユニークな指導で有名。試合に負けた選手の上下のヘアを剃ることもあり、八田イズムとして有名だった。現在の日本でもほとんどやっていないことを米国人相手にやっているとは思えないが、八田イズムをどの程度米国選手に注入しているかが気になるところ。

 八田氏は「他の競技を研究することですね。相撲や柔道、剣道、ラグビー…」と答えた。確かに、八田一朗氏は柔道、剣道ともに有段者であり、その動きや間合いをレスリングに取り入れていた。他競技を学ぶことも八田イズムの実践に他なるまい。

 日本チームが五輪イヤーの元旦にやるような寒中水泳といった精神的な修養はどうなのか。この問いには「アメリカにも北極熊グループと呼ばれ、冬に海や湖に飛び込む人間もいますよ」と笑うにとどまったが、米国ナショナルチームの常設練習場のあるコロラドスプリングズ(標高1800メートルの高地)では、登山電車跡の道をかなり激しく走らせる練習をやっているという。

 その成果が、昨年の世界選手権で男子グレコローマンが史上初めて国別対抗得点で優勝という結果に表れた。古今東西を問わず、世界一への道はハードトレーニングであることは間違いない
(左写真:優勝はできなかったが、コーチとしてのスタートは打倒日本を果たしての銀メダル=左から2人目が八田コーチ)

 さらに「レスリングはファイト、すなわちケンカ」という気持ちでやらせているという。闘う限りは絶対に勝たせる気持ちを持たせるとともに、「学校でケンカになった時、タイムを取ってウォーミングアップしてからやることはない。どんな時でもすぐに闘う気持ち、これが大切です」と言う。八田イズムの精神は、形を変えながらも脈々と受け継がれているようだ。

■出生の地は北京! 思い出の地で勝利の美酒を飲めるか

 「オヤジは合宿や遠征が多くて、ほとんど家にいなかったんですよ」。父の思い出を問われて最初に出てきた言葉だが、戦後すぐの時からレスリングがらみで外国人との交流が多かったため、八田コーチも知らず知らずのうちに国際感覚が身についたプラスはあったという。当時の日本人の多くが持っていた外国人コンプレックスというものと無縁で、このあたりが米国社会に溶け込め永住することになった一因なのだろう。

 しかし、日本人であることも忘れてはいない。米国在住40年以上になるが、現地で流れるNHK中継は必ず見るし、歌謡曲にも耳を傾け、日本語は極めて流ちょうに話す。米国に住み、米国のコーチとして打倒日本に情熱を燃やしながらも、故郷の日本を忘れることはできないのだろう。

 「故郷」と言えば、生まれたところは昭和17年に父が出征している最中の北京だった。「3歳までいて、中国語を話していたそうです。日本に帰ってきた直後の記憶はあるのですが、北京での記憶は残っていません。でも、思い出の地。だから、コーチに立候補したんです」。

 忘却の彼方にある思い出の生まれ故郷で勝利の美酒を飲むことができるか。それとも栄和人監督率いる日本がその野望を打ち砕き、草葉の陰の八田一朗会長に日本の伝統を守ったことを報告することができるか。

(文=樋口郁夫)



八田コーチの本職はオハイオ州の高校の美術教師。作品の一部を紹介します。


武 蔵 1983年スーパーチャンピオンカップのポスター カレリンを破ったルーロン・ガードナー

1984年ロサンゼルス五輪優勝のデーブ・シュルツ 1991年世界王者のジーク・ジョーンズ


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