【特集】30年以上にわたって全日本チームを熱くサポート…菅平プリンスホテル・大久保寿広社長【2009年7月26日】

(文・撮影=樋口郁夫)



 毎年の恒例ともなっている7月の男子全日本チームの菅平合宿。標高1300メートルの高地で酸素が薄いうえに、アップダウンが激しい格好のランニング場所もあり、マットワーク、野外トレーニングともに平地以上の苦しさが襲う。根子岳(標高2207メートル)へのランニング登山も必ずと言っていいほどメニューに組み込まれ、選手の基礎体力養成に絶大な効果を発揮している。

 1978年に高地のメキシコ市で世界選手権が開催されるにあたり、高地対策として実施して以来、抜けた年もあったが、30年以上にわたって行われてきたレスリング界の“伝統行事”だ。

 その全日本チームを世話し続けているのが、宿舎の菅平プリンスホテルの大久保寿広社長(左写真)。当初は、現在の個室完備のホテルではなく、木造の建物だった。今以上に選手とコミュニケーションがとれる環境にあり、若い選手が夜遅くなって「腹減ったー」と言い出すシーンに出くわすことが多かったので、余ったご飯やおかずを鍋料理にして選手として一緒に食べたりもした。

 その何人かが今は協会幹部になり、コーチになっている。まさに「同じ釜の飯を食べた仲」。それがゆえに、「レスリングの人たちは単なる宿泊者じゃないです。かけがえのない仲間であり、家族です。ここで汗を流した選手がオリンピックで金メダルを取った時は、涙が出てきました」と言う。

■レスリングのために、敷地内に体育館を新築

 1995年にはホテルの裏にマット2面が十分に入る広さの体育館を造った。「レスリングの人たちから言われ続けましてね」。それまでは、菅平プリンスホテルに泊まりながら、練習はすぐ近くの文部省(現文部科学省)の研修施設の体育館を使用。合宿のたびに地元の協会などからマットを運ぶという面倒があった。もちろん費用もかかる。

 体育館ができ、国士舘大がマットを無償提供してくれたおかげで、無駄なことに神経を使うことなく練習に打ち込めることになった。家族と感じているレスリングの仲間の要望なればこその決断。剣道、バレーボールなど多くの競技が使用する体育館だが、大久保代表は「レスリングのために造ったようなものです」と言い切る。

 2004年アテネ五輪から昨年の北京五輪にかけては、富山英明強化委員長が“八田イズム”の精神で、マスコミに数々の話題を提供する練習を行った。「馬に追われる練習」(右写真=2007年合宿、右端が大久保社長)や「取材記者に根子岳に登る体験取材をさせる」などだが、これらも大久保社長の協力があればこそ。馬は大久保社長が走らせてくれたものだし、根子岳登山は報道陣のために車で行けるところまでマイクロバスを走らせてくれた(そうでないと距離がありすぎ、例外なく運動不足の記者の体力では厳しい)。

 これだけレスリングに尽くしているのだから、選手やコーチからの信望も厚い。オリンピックや世界選手権のあと、選手・コーチから「お世話になりました」と遠征先のお土産をもらうこともしばしば。「全日本のレスリング・チームがここを使ってくれるのは、ホテルの宝であり、ボクの心の支えです」と、レスリングへの思いは半端ではない。

■チームの朝練習の前に一人で練習していた現役世界チャンピオン、高田裕司

 長年にわたって全日本チームを見てきて理解できたことは、トップに立つ選手は普通以上の練習をしている事実だ。全日本チームが最初に泊まった1978年のこと。朝6時に起きて馬の世話をしていると、1976年モントリオール五輪を含めて世界5連覇を目指していた現役の世界チャンピオン、高田裕司・現日本協会専務理事が一人で宿舎から出てきた。

 チームの朝練習には時間がある。不思議に思っていると、根子岳へ向かって走っていったという。チームの練習の前に一人で汗を流していたのだ。当時はそれほどすごい選手とは知らず、「ひょろひょろしたヤツだ」くらいにしか思っていなかったそうだが、チーム練習の前に体を動かす練習熱心さと、その走り方を見て、「タダ者じゃない」と感じたという。

 「本物の忍者を見たことはないが、忍者みたいなさっそうとした走り方だった」そうで、リズムに乗った走りで、スピードもすごかったという。それから注意して練習を見るようになったが、「すごい集中力でした」と振り返る。「今の選手も、みんな一生懸命にやっていると思います。でも、あの時の高田君の集中力と目の鋭さに比べると、失礼を承知で言わせてもらえば、何かが欠けているような気がします」−。(左写真=今年の合宿中日に行われた記者とチームの食事会であいさつする大久保社長)

■気遣いのすばらしさがレスリングに役立っていた富山英明

 1984年ロサンゼルス五輪金メダルを含めて世界で「金3・銀2・銅1」を取り、高田専務理事と双璧をなした富山英明・前強化委員長(日大教)は、練習への姿勢もさることながら、人間としての幅の広さを感じることができ、それが競技力に生かされていたと分析している。

 「とにかく気遣いのできる人でした。人の気持ちを読む能力に長けていて、結局、それが敵の気持ちを読む力につながり、勝負に生かされていたんじゃないかなと思います」。相手の性格を読み取り、冷静さを失わせるといった駆け引きも、勝負の世界、特に紙一重の差の闘いに勝つには必要になる。

 「単に技術がすばらしいだけでは、世界一になることは難しいような気がします。他人の心を読む力ですね。気遣いができる人間であればこそ、敵の心も読めるわけですよ」。富山前強化委員長から感じることは、人間として一流にならなければ、選手として一流になることはできない、ということだ(右写真=2007年合宿。中央に大久保社長と富山前強化委員長)

 「コーチでない自分が言うべきことではないが」と前置きして言うには、「勝つためには、科学的な練習も必要でしょうけど、最後は精神じゃないかなと思います。それには、人の倍の練習をすることでしょう」。オリンピックで金メダルを取った選手の陰の努力を見続けてきただけに、今のチームにはちょっぴり物足りなさを感じているふうでもある。

■「人生には3つの坂がある」が持論。上り坂、下り坂、もうひとつは…

 「プリンスホテル」といえば、品川プリンスホテルや苗場プリンスホテルなど全国各地にある西武系列のホテルを思い出すところだが、系列ではない。しかし、西武鉄道から名称使用は認めてもらっている。

 大久保社長の社会人としてのスタートは、1964(昭和39)年の西武鉄道入社に始まる。5年間勤めたあと、親から土地をもらって菅平にホテルを始めることになった。その時の上司に「せっかくだからプリンスホテルにしろ」とアドバイスされ、堤義明社長にも話してくれ、名称使用を認めてもらったのだという。仕事に精神誠意尽くしたからこそ、独立の“餞別(せんべつ)”に認めてくれたのだろう。西武鉄道の同期入社の人たちが毎年、菅平プリンスホテルで同期会を開くというから、人望の厚さがうかがえる。

 「人間には運がありますよね。一生懸命にやっていれば、必ず運が巡ってきて人生が開ける。スポーツも同じだと思います」と言う大久保社長の持論は、「人生には3つの坂がある」。上り坂、下り坂、そしてもうひとつは「まさか」。努力を積み重ねていけば、いい方向に人生が回っていく「まさか」という場面に出くわす。いい加減にしていれば、悪い方向へ進む「まさか」に襲われる。ここで汗を流す選手は、「だれもが、いい“まさか”をつかんでほしいと」言う(左写真=ホテルに飾ってある1988年ソウル五輪日本代表チームのサイン入り色紙)

 子供は4人で、末っ子の優さんは現役のスキー選手(オフィシャルウェブサイト)。これまでに全国高校選抜選手権回転優勝をはじめとして、全日本でも上位を占めてきた選手。日大時代は、のちにアテネ五輪銅メダリストに輝く井上謙二選手(現自衛隊)と同級生。現在は来年のバンクーバー五輪から採用されるフリースタイルスキーのクロスで同五輪出場を狙っている。

 もちろん、いい“まさか”を期待している。レスリング界のエネルギーを結集させ、サポートしたいところだ。


《iモード=前ページへ戻る》
《前ページへ戻る》