【特集】元日本中量級のエース・小幡邦彦氏の世界で勝つためのススメ、「若者よ、研究せよ」【2009年6月5日】



 ビーチを含め4スタイル26名の代表の中、13人がシニアとしては初代表だった今年のアジア選手権の日本代表チーム。北京五輪を目指した全日本チームから大幅にメンバーが入れ替わった。男女ともに北京五輪代表がいない“新生ジャパン”として挑んだ大陸選手権での新人の活躍は明暗が分かれた。

 初出場で衝撃のデビューを飾ったのは女子59kg級の伊藤友莉香(環太平洋大)と男子フリースタイル66kg級の米満達弘(自衛隊)。世界ジュニア選手権も未経験の伊藤は、得意の攻撃的スタイルを貫いて優勝。米満はしなやかな伸びのあるタックルを10本以上も決めて銀メダルを獲得した。初シニア代表ということで、それぞれ緊張したようだが、勝因は「自分のスタイルを貫けた」こと。北京五輪メンバーが引退などで抜けている中、ジャパンチームに新たな希望の星となったことは間違いない。

 一方で、今まで松本慎吾(現日体大教)がいて日本の看板階級だったグレコローマン84kg級の斎川哲克(両毛ヤクルト販売)をはじめ、4人の初代表選手が初戦で敗退。ほろ苦いシニア・デビューとなってしまった選手も多数いた。今年9月の世界選手権ではぜひともリベンジしてもらいたい。

 今後、シニアの世界で戦うためにはどうすればいいのか。2000年から約9年間、日本の中量級のエースとして2004年アテネ五輪代表、5度の世界選手権に出場した小幡邦彦(山梨学院大職=右写真)に、世界で戦うための秘訣を聞いた。(聞き手=増渕由気子)


■最初は世界情勢なんてわかりません。誰でもそうです。

 ――アジア選手権前の取材で、海外で気になる選手を挙げてもらったところ、一番多く帰ってきた答えが「世界の分析はまだしていない。どんな選手がいるのかも分からない」でした。小幡さんは、初の日本代表の時はどういう状況でしたか?

 「私の世界デビューは、シドニー五輪予選のときです。1999年の全日本選手権で初優勝し、大学生ながらシドニー五輪予選に抜ってきされました。予選代表になったときの心境は『思ったよりオリンピックは近いところにあったな』という気持ちでした。ですが、世界の初舞台ではボコボコにやられてしまいましたよ」

 ――元世界10位の小幡さんも、最初はほろ苦デビューだったんですね。では、今大会、国際舞台での初陣を飾れなかった選手たちも落ち込む必要はないわけですね。

 「そうですね。誰でも最初はそうです。私も最初は世界の勢力図とか分かりませんでしたし、結果も残せませんでした。ですが、国内で勝ち始めてからは、世界各国の選手の研究もかなりしました。今回、シニア・デビューを飾れなかった選手たちは、これから海外試合に向けての姿勢が重要になってくると思います」

 ――研究はどの程度しましたか?

 「ビデオなどで、どの国の代表も顔と名前、そしてレスリング・スタイルや得意技が分かるように研究しました。ロシアなどの強豪国になると誰が代表になるか分かりませんので、2番手、3番手くらいまで頭に入れておきましたね」

 ――2003年の世界選手権で10位となり、アテネ五輪出場を決めた頃は、知らない選手はいなかったということですか?

 「そうですね。対戦する相手のデータはほとんど頭に入っていました。特別、研究ノートなどを作ったわけではないのですが、自分の頭の中で整理してありました」

 ――研究しなければと思ったきっかけは何ですか?

 「全日本合宿のときに、当時専任コーチだった和田(貴広)コーチの家に泊めていただいた時のことです。朝食の時、テレビに映っていたのはあるレスリングの試合のビデオでした。朝7時から和田コーチと『この選手の技は・・・』とレスリングの話をしながら食事をしました。朝からレスリングのビデオを見ていることに驚きました。和田コーチは世界2位まで行った選手。やっぱり、世界で勝つにはここまでしなければならないんだと、レスリングに対する意識が変わった瞬間でした」

 ――ビデオ研究は大事だと思いますか?

 「はい、研究することは大切だと思います。客観的に見ることで気づくことがたくさんあると思います」

 ――そのビデオ研究の成果が実ったなと思った試合は

 「2002年のアジア大会ですね。メダルは取れませんでしたが、前年の大阪での東アジア選手権で1−3で負けたシドニー五輪4位のゲンナディ・ラリエフ(カザフスタン)に勝ったことです(ラリエフはのちに、アテネ五輪で2位になる)。ラリエフはタックルが早くてうまい選手なのですが、入らせてくっつく練習をしました」

 ――現在では、強化の一環としてビデオライブラリーが味の素トレーニングセンターにあるなど、世界の研究が容易にできる環境になりましたが。

 「本当にうらやましいです。私が若いときはそういう施設がありませんでした。味の素トレセンの環境をできる限り使用したほうがいいと思います。自分も若いときに戻りたいですよ」

■無名選手だから通用するタックル、その落とし穴は―

 ――今回、男子フリースタイル66kg級の米満選手(左写真の左)が得意のタックルを何本も決めて銀メダルを獲得しました。ですが、決勝戦では「組み手でタックルを封じられてしまった」とイランの選手にタックルを出せなかったんですよね。

 「本人も分かっていると思いますが、組み手がとても重要なのです。今回、タックルが何度も決まったのは、ノーマークだったからでしょう。研究されると次からはタックルを出せなくなると思います。そのためにも、組み手の強化が必要なのです」

 ――小幡さんは74kg級で五輪に出場し、最後は84kg級にアップして昨年12月の全日本選手権で有終の美を飾りました。その84kg級で準優勝し、アジア選手権でシニア・デビューを飾った松本篤史選手(日体大=アジア選手権では初戦敗退)に関してはどのような印象を持っていますか?

 「レスリングが単発で力任せなところがあると思います。今のままでは次の海外試合でも同じ結果になると思います。組み手や脱力を覚えたほうがいいと思います。いろんな選手とやって、人の真似とか、いろんな技にチャレンジしてもらいたいです。そして海外での経験を積んでいけば分かってくると思います。今回の結果に決して落ち込む必要はありません」

 ――世界で勝つにはパワーより技だと思いますか?

 「私も世界に出たばかりは力任せにやっていました。ですが、その考えを根本的に覆したのが、2001年の世界選手権でのちに五輪V3を達成することになるブバイサ・サイキエフ(ロシア)との対戦です(右写真)。試合開始直後の印象は『力がそんなに強くない』でした。実際にポイントも奪えましたし。でも、力がなくてもサエキエフは、組み手などで私に何もさせませんでした。私の力が抜けた瞬間に技をかけるなどして、得点を次々に奪いましたから。その時に『力だけじゃ勝てない』と脱力を覚えました。正直いいますと、脱力を覚えたのが遅かったですね。もっと早く気づけば、もっと強くなれたと思っています。だからこそ、松本選手などこれからの選手には早く気づいてほしいですね」

 ――現在の若手を見ていて、海外ですぐに活躍できると思いますか? 日本代表クラスの若手には「組み手はしません」と言い切っている選手もいるのですが。

 「正直、キツいと思います。単発のレスリングでは勝てません。日本人には通用すると思いますが、海外では勝てないと思います」

 ――よく日本でタイトルがないのに、海外のオープン試合などで成績を残し、「あとは日本人選手に勝つだけ」という選手がいますが。

 「私は、日本人用のスタイルと海外選手用のスタイルを分けていました。日本と海外ではレスリングのスタイルが全く違います。国内、海外と分けて考えないと、勝てないと思います。スタイルを変えるといっても、自分のスタイルが国内外でも生きるように、試合運びをすることがポイントです」

■現役復活の可能性は?

 ――レスリング界には北京五輪銀メダリストの松永共広(ALSOK綜合警備保障)選手など、小幡さんと同じ1980年度生まれのスターが大勢いますよね。世界V6の坂本日登美(自衛隊)さんは引退しましたが、2006年世界選手権代表の田岡秀規(自衛隊)選手のように現役を続ける方もいます。現役全日本チャンピオンながら引退した小幡さんには「まだ早いのでは」という声も多くきかれます。今後の復帰の可能性はありますか?

 「実際、現役の選手とやっても、まだ負けないと思います。2012年のロンドン五輪の時に私は31歳ですから、年齢的にも絶対にできないわけではありません。ですが、現役は北京五輪までと決めてやってきましたので、ロンドン五輪を目指す気持ちは今はありません。今後は指導に専念して、コーチとしてやっていこうと思っています。山梨学院大のコーチはもちろん、日本を背負う若手たちにも積極的に技などを教えていきたいと思います。全日本のナショナルコーチなどの声がかかったら喜んで参加したいですね」

 ――今後は優れた指導者を目指すということですね。

 「そうですね。でも選手たちと一緒に練習はしていますので、五輪が近づいて体力などが落ちていないなど、やれそうだったら目指すかもしれません。でも、まずは今の若手選手たちを世界で通用させるように育てたいです」


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