【特集】再び花を咲かせた“指導のプロフェッショナル”…京都府立海洋高校・三村和人監督(上)【2009年4月11日】



 3月27日〜29日に新潟市体育館で行われた風間杯全日本高校選抜選手権の学校対抗戦で、連覇を狙った京都八幡高は昨秋の県予選で敗退し、その舞台を踏むことができなかった。京都から出場したのは網野高と、京都八幡を下して全国大会初出場となった海洋高。この2校には共通点がある。

 どちらも、クラブの生みの親が三村和人氏(現海洋高顧問=左写真中央)ということ。2004年アテネ五輪銅メダリストの井上謙二選手(現自衛隊)や、五輪二大会連続銀メダリストの伊調千春選手(現ALSOK綜合警備保障)、世界V4の正田絢子選手(現網野高教)らの育ての親だ。

 三村氏は名実ともに”名伯楽”にふさわしい指導者になったが、本人の競技経歴は、ごく一般的だ。レスリングは大学から始め、グレコローマン90kg級で活躍。全日本学生選手権3位とカナダカップ3位が学生時代の主な成績だ。所属チームは、五輪選手未輩出の同志社大。「大学時代は”楽しく自由に”やりました」と文武両道のキャンパスライフを送った。つまり「教え子に比べると、僕の成績は全然ですよ」(三村氏)という具合だ。

■地元密着のキッズから高校生の一貫強化システムを構築

 同志社大学文学部心理学科を経て大阪体育大学に進み、保健体育の教員免許を取得して、京都府の教員になった。一般的な高校教員・三村氏が、ごく普通の公立高校・網野高に赴任したのは、24年前のこと。この三村氏と網野高の出会いが、数々の強豪選手が生まれるきっかけとなった。赴任の目的は、1988年の京都国体の強化のため。網野の地域を挙げて三村氏はレスリングの強化に取り組んだ。

 京都国体も無事に地元・京都が優勝を収めることができた。地元が国体で優勝するのはよくあることで、課題は国体後の強化だ。それについて京都府は、「開催種目で町おこしをしていく」という方針を打ち出した。そのため、三村氏は網野高にとどまり、引き続きレスリングの強化体制の尽力するようになる。これが、本当の網野高レスリング部のスタートとなった。

 三村氏が一代で強化システムを作り上げられたのは、京都府の意向もあって「18年間も同じ学校に勤務でき」という事情が大きい。京都府では、レスリング以外も、国体時の強化体制が地域に根付いている競技が多く、国体開催から常に10位付近をキープしているという(右写真=網野高校時代の三村監督、1993年12月)

 国体終了後、網野にどういう強化システムを作り上げるかが三村氏の課題だった。網野は京都市内から電車で2時間もかかる場所。公立高校のため、中学の強豪選手をスカウトするシステムは難しい。そもそも、外から強豪選手を招へいしては、地元密着型の強化とは言えない。

 「漁業システムではダメ。だから、種を自分でまいて育てる、という農業方式の強化にしたのです」。三村氏は、当時珍しかった高校主催のキッズ教室を開校。キッズシニアまでの一環強化システムを作り上げた。そのキッズ一期生の中に井上謙二選手が含まれる。その後、“網野の畑”にまかれた種の中から、2006年世界選手権代表の松本真也選手(現警視庁)や“タックル王子”こと高谷惣介選手(現拓大)、世界ジュニア・チャンピオンの三村冬子(現日大=三村氏の次女)、“ポスト坂本日登美”の堀内優選手(現日大)など続々と強豪選手を輩出している。

■ボートの監督としても手腕を発揮し、2年でインターハイ出場達成

 順調のように見えた強化システムだが、三村氏は「迷いはありましたよ」と振り返る。井上謙二選手が全日本のタイトルをなかなか取れなかったり、教え子が大学で伸び悩んでいたりしていると、「僕の基礎指導が間違っていたのでは、と思いました」と言う。

 指導方法に迷走した時期もあったようだが、2004年、井上選手がアテネ五輪で銅メダルを獲得したことで、ようやくその悩みから開放され、今では「自分のやり方は間違いではなかった」を胸を張れるようになったそうだ(左写真=1993年の網野高。後列左端が三村監督、中列左から2番目が井上謙二選手)

 2002年、三村氏は監督業を教え子の吉岡治氏に譲り、一度レスリングの表舞台から引退。2年間、進学校の宮津高で教べんをとった。当時はボート部の監督を担当。もちろんボートの経験はなく、「生徒と一緒に見よう見まねで勉強しました」と、超初心者からの再出発だったが、レスリング時の強化ノウハウを生かして、部をインターハイに出場させてしまう。「船の免許も取ったし、楽しい2年間でした」とうれしそうに話す三村氏は、レスリングの才能というより、“指導能力”がズバ抜けていたのだ。

網野高でレスリングを強化し、宮津高ではたった2年でチームをインターハイに連れて行った―。この手腕が、現在赴任している海洋高の校長の目にとまった。「ぜひ、うちの学校にレスリング部を作ってほしい」。異動の打診だった。ちょうどそのころ「また、レスリング部の活動ができれば」と希望を持っていた三村氏には、「渡りに舟」の話だった。

 今から5年前の2004年から府立の水産高校・海洋高に異動。またも”レスリングの種”をまき始めることになった三村氏だが、ひとつだけ大きな壁が立ちはだかった。「当時の海洋高は、良い生徒もいましたけど、『ごくせん』(荒れた高校を扱った仲間由紀恵主演の学園ドラマ)のような学校だったんですよ」。その”不良校”を三村氏はどのように改革し、海洋高のレスリング部をたった4年で全国の舞台に立たせたのか―。(続く)。

(文=増渕由気子)


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