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【特集】「松本慎吾先輩のようになりたい」−。キャリア5年で全日本選抜選手権を連覇した金久保武大(マイスポーツ)【2010年6月3日】

(文=増渕由気子)
 


 今年の世界選手権(9月、ロシア・モスクワ)のグレコローマン代表は、全階級が前年と同じ顔ぶれとなった。各階級のエースがそろったという感がする。一方で、代表選考会を兼ねた全日本選抜選手権の結果のみに焦点を当てると、グレコローマン74s級で優勝した金久保武大(マイスポーツ=右写真)が、大記録を打ち立てたことに気づく。

 大学からレスリングを始めた金久保が、全日本選抜選手権に初出場したのは昨年のこと。その大会で、北京五輪予選代表の鶴巻に決勝で勝って初出場初優勝を達成。2度目の出場となった今年の大会でも、再び鶴巻に勝って、レスリング歴わずか5年1ヶ月で大会を連覇した。

 プレーオフでは2年連続で鶴巻にキャリアの差を見せつけられてしまい、世界選手権へのキップを逃したが、大躍進の活躍。その実績が認められてゴールデンGP予選「G・カルトジア&V・バラバーゼ国際大会」の代表に抜ってきされた(6月3日出発)。そんな金久保のレスリングルーツを振り返る。

■東海大付属高校の柔道エリート出身

 金久保のバックボーンは柔道だ。高校時代は都内にある東海大高輪高に柔道部の特待生として在籍していた。「打倒・世田谷学園、国士舘高!」と意気込んで練習に励んだが、インターハイの出場はならなかった。東海大柔道部への進学をにらんで、その付属高に入ったのだが、目標を見失ってしまった。――2004年の夏のことだった。

 2004年の夏といえば、世間はアテネ五輪に夢中だった。金久保も欠かさずテレビ観戦。そこでレスリングに出合う。「レスリングも柔道と同じ格闘技なので見ていたのですが、そこで、日本人が体格のいい外国人選手を俵返しで豪快に投げた試合を見たんです。レスリングもカッコいいなと思ったんですよね」。
(左写真=2004年アテネ五輪で爆発した松本慎吾の俵返し)

 金久保はレスリング転向を決意し日体大に進学。偶然にも、その場所には“あの男”がいた。転向を決定付けた人物…。金久保がテレビで見た日本人選手とは、アテネ五輪代表の松本慎吾・現日体大現監督だった。

■レスリング歴3年5ヶ月年でインカレ王者へ

 こうして、意気揚々とレスリングに転向したが、描いていた青写真はすぐに崩れた。本格的な柔道経験者なのに、扱いは初心者と同じ。入部してからの2ヶ月間はマット運動ばかりをやらされた。スパーリングも未経験のまま出場した4月のJOC杯ジュニアオリンピックでは、山梨学院大の選手相手に0−2で敗退。「転向は間違っていたのかも」。キャンパスで柔道部に入った旧友に会うたびに、後悔している自分がいた。

 その後、6月の東日本学生春季新人戦で、第1シードの根津隆夫(早大)に勝つという快挙を達成した。3回戦で日体大の上級生に敗れたものの、トップになれる手ごたえをつかんだ。だが、次の悩みは松本慎吾とのスパーリングが許されないことだった。「当時の松本先輩は、北京五輪を目指す現役。後進の指導ではなく、自分の練習がメーンだったので、初心者の僕は手合わせしてもらえませんでした」。

 スパーリングが許されたのは、大学2年(2006年)の春。「ボクが練習相手になるレベルになったんだと、素直にうれしかった。松本先輩は本当に憧れ。僕のスタイルはすべて松本先輩の真似ですね」と言い切る金久保は、松本スタイルを受け継ぎ、同年春の新人戦3位入賞、2007年8月の全日本学生選手権3位などを経て、2008年8月、レスリング歴3年5ヶ月で全日本学生選手権を優勝して見せた。

 金久保は「これで満足して引退できる」と充実感に浸った。柔道では味わえなかった全国大会の舞台に立ち、そこで優勝したのだから。だが、引退すると決めて臨んだ12月の全日本選手権が2度目のターニングポイントとなった。「初めて出た大会で2位になったんです。決勝戦では鶴巻さんに負けたんですが、その内容が1−2ときん差だったんですよね(第3ピリオドは1−1のラストポイントでの負け)」
(右写真:2008年全日本選手権表彰式=左=と2010年全日本選抜選手権表彰式)

 インカレ王者の特権を使って大学院に特別推薦で合格しており、引き続き日体大で練習ができる環境にあった。松本監督(当時コーチ)の「お前はまだ強くなる」という後押しもあって、現役続行を決意した。

■初出場初優勝後の出場停止処分

 金久保の力はとどまることを知らない。翌2009年6月の全日本選抜選手権では、前述の通り初出場で決勝に進出し、鶴巻を2−1で破って初優勝を遂げた。同階級のエースを破った金久保だが、おごりを見せることはない。「鶴巻さんは本当に強い。全日本合宿では、コーチのような存在だし、練習ではまず点は取れない。グラウンドのディフェンスで10回に1度守れるかどうか…」。

 それでも、信念がある。「絶対に勝てないなら試合する必要がない。強い選手だからこそ、挑みがいがあります」。登山家はそこに山があるから登る。金久保も同じで、そこに強い相手がいるから、乗り越えたいという気持ちにかられる
(左写真=全日本合宿で練習する金久保)

 だが、昨年12月の全日本選手権に金久保は出場していない。日体大部員の不祥事により、同大大学院の選手も出場を認められなかったからだ。同じ大学院生でも、企業にも籍がある場合は出場を認められたが、大学院の肩書きしかなかった金久保は、同大大学院在籍者の中で一人だけ出場できなかった。

 ショックはあったが、すぐに乗り越えた。「全日本選手権なんだから、誰でも出られる大会ではない。(人口20万人と言われる)柔道界では、インカレでさえ出場できるのは地区予選などを勝ち抜いた猛者だけ。部員が多い大学には、その予選すら出られない選手もいます。レスリングに転向して、試合に出るありがたみを忘れていました」。

■消えることのない初出場から2年連続優勝という記録

 今年4月からは、縁あって岐阜の「マイスポーツ」の所属となり、6月の全日本選抜選手権で復帰。「マイスポーツさんには感謝の言葉しかない」という言葉を胸に、決勝で再び鶴巻を倒して2連覇を達成した。

 「初優勝のときは、ルールで勝たせてもらった感じ。今回はグラウンドで技も決め、常に冷静でいられた。実力で勝てました」。プレーオフでは、「世界選手権やアジア大会の欲が出てしまいましたね」と苦笑。焦りもあって最後の俵返しが不発に終わって敗退
(右写真)。だが、鶴巻も成し遂げていない本戦での2連覇の記録は消えることはない。

 世界選手権出場は夢と消えたが、2連覇の功績は、グルジアでのゴールデンGP予選出場という“副賞”をもたらした。「日本代表なんて信じられない。また頑張ろうという気持ちになりました」。

 2009年冬に欧州遠征に参加しているが、2大会で2戦2敗(うち1試合は鶴巻との試合)。まだ世界の舞台では勝ち星がない。遠征の抱負は、「とにかく100パーセントの力を出し切りたい。GP本戦出場を目指して頑張ります。もちろん、俵投げを決めたいですね」と、松本流を貫く腹積もりだ。松本直伝の俵返しが世界でさく裂する日は来るか−。



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