▲一覧ページへ戻る


「多くの人の支援に感謝したい」…岩手県協会・上野三郎会長
【2011年3月27日】


 3月11日に発生した東北地方太平洋沿岸地震で津波による大打撃を受けた岩手県・宮古市。同市の南約25km、やはり沿岸部にある山田町に住む同県レスリング協会の上野三郎会長(右下写真=2002年8月撮影)が、本ホームページの電話取材に対し、震災時の状況や避難生活などを説明してくれた。同会長の家は流されてしまったものの、「多くの方の支援に感謝したい」と、全国のレスリング関係者にメッセージを送った。




 地震が起きた3月11日午後は、今夏に開催される宮古インターハイの打ち合わせを試合会場でやっていた。会議は2時半すぎに終了。外に出たあとの同46分に地震が襲ってきた。すぐに家に戻り、家族の安否を確認したあと、「津波が恐ろしい地域」という認識を持っていたので、どうやっても津波は襲ってこないという高台の兄の家に急いで避難したという。

 その後、街は津波に襲われ、壊滅的なダメージを受けた。宮古市は1897年の明治三陸津波、1933年の昭和三陸津波と二度の大きな津波被害を受けており、そのため、市全体を守る高さ10メートル、総延長2.8kmの防波堤が建設されていた。「宮古の万里の長城」とも言われ、1960年のチリ地震津波ではその効果が発揮され、他の三陸地方では犠牲者が出たがこの地では死者なし。被害を最小限に食い止め、長年、市の守り神として存在してきた。

 今回の津波は高さ10メートルを超えるもので、エネルギーは阪神淡路大震災の1450倍。波は防波堤を乗り越えて街中を襲った。上野会長は兄の家に逃げることを優先し、津波が街を襲うシーンは見ていない。

 津波が引いたあとは火災が発生。道路が打撃を受けていたこともあって消防車が進めない。進めたとしても水が出ない。余震が続いていて、また津波が来るという恐れもあって消化活動ができず、13日まで足かけ3日間、街と周囲が燃え続けた。現在は街の3分の2が焼け野原。山田町の上野会長の家も跡形もなく、「土台しか残っていません。建物がどこに流れたかも全く分からない。家の中にあったものは何も残っていません。防波堤は今回の津波に役に立ちませんでした。あ然として街を見るしかありませんでした」と言う。

■無事だった人は、着の身着のままの人が多かった

 市民の心の中には防波堤があるので安心していた部分があったようだ。地震でいったんは家の外に逃げ出しながら、物を取りに戻ったり、中には防波堤に津波を見に行った人もいたという。そうした人たちは津波に飲まれてしまったとのことで、「津波に対する油断がありましたね。これまでの津波といえば、高さ50cmとかのものでしたから」と言う。逆に、避難所で無事だった人は「大事なものすら持っていず、着の身着のままで逃げてきた人が多い」と、津波の危険に対する意識の違いが生死を分けたようだ。

 その後は電気、ガス、水道は止まり、携帯電話も通じない避難生活。避難した人たちと救助・復旧を待った。電気や水道は3日前に復旧。テレビはアンテナの関係か、上野会長の地域ではいまだに見られないという。したがって、被災地以外の人は嫌というほど目にした街が流されるシーンはまだ見ていない。ただ、避難中はラジオが通じており、太平洋沿岸はどこも壊滅的な被害だという情報は知ることができた。「ラジオが頼りでした。24時間つけっ放し。ラジオがなければ、何が何だか全く分からなかったでしょう」。

 宮古商業高校の生徒でなくなった人もいるが、レスリング部員は全員無事。ただ、村上和隆監督が父を亡くされたという。

 宮古市は今年8月にインターハイが予定されていた市。大会が行われる体育館自体は無事だったが、市で一番大きなホテルがダメージを受けて閉鎖するらしく、旅館なども同様に大きな被害を被った。「宿泊の面で(インターハイ開催は)厳しいと思います」とのこと。インターハイとなれば地元の住民がボランティアで多くの役職を引き受けてくれるのが普通だが、復興に尽力しなければならない時期。「やるとしても、コンパクトに最小限の人数でやることになるでしょう」と話し、宮古市の出す結論を待っているが、まだそのことに言及できる段階ではない。

 もし実施が不可能となれば、北東北(青森・秋田・岩手)のどこかに引き受けてもらうことになるが、野球やサッカーと違い、レスリングをやっている高校のある市は限られている状況。「レスリングを知らない地でも、引き受けてくれる所があればいいですけど、そういう所がありますかね…」と話した。

■レスリングつながりの支援に心から感謝

 地震から2週間が経ち、まだ不明者は多く、この日も雪が降るなど困難は続くが、生活ラインも復活。仮設住宅が着工されるなど、やっと復興の道が見えてきた。上野会長は「レスリングに助けられました」と話す。被災のあと、青森県・八戸キッズ教室の鈴木力也代表や、同じ岩手県の種市高校の濱道秀人監督らが選手の父母から物資を集め、真っ先に届けてくれた。

 一番必要なものは食料だった。兄の家にとりあえず住むことができても、食べ物は2、3日で底をつく。ライフラインがしっかり確立されていないので店に行っても食べ物が手に入らない。「とにかく食べ物を、と頼みました」と、避難生活を振り返る。

 秋田県からも、五城目高校の菅原弥三郎監督(1976年モントリオール五輪銅メダリスト)や日体大で同期だった将軍野クラブの高田和男代表がわざわざ来てくれた。東北自動車道が開通したこともあり、この日は2年先輩だった藤本英男・日体大前部長が救援物資を持って来てくれた。ここでは書ききれないほど、レスリングつながりでの支援を受けたという。

 家とすべてのものがなくなり、困難が予想される今後だが、「生活は落ち着きつつあります。できることからやっていこうというところです」と話す上野会長。「全国のレスリング関係者には、物心両面にわたるご支援を心から感謝します」と結んだ。



  ▲一覧ページへ戻る