故沼尻直氏(日本協会・前副会長)の合同葬


       


 昨年12月10日に心不全でご逝去された日本協会の前副会長であり全国中学生連盟会長の沼尻直氏(享年73歳)の、茨城県体育協会、水戸市体育協会、拓大学友会、茨城県レスリング協会による通夜が1月15日に、葬儀が16日にともに水戸市の水戸市斎場で行われ、約700人の会葬者が故人に別れを告げた。

 日本協会からは、福田富昭会長が葬儀副委員長として列席。弔辞を読み、国際レスリング連盟(FILA)のラファエル・マルティニティー会長(スイス)から贈られた弔辞も朗読。交流のあった韓国レスリング協会から、ヤン・ヨンチー副会長ら6人が来日して列席。同副会長が「1970年のエドモントン世界大会で、韓国・釜山市のレスリング協会と交流してくれることを決め、71年に韓国チームが日本へ、翌年に日本チームが韓国に来てくれて交流がスタートした。韓国初の五輪金メダリストは釜山出身。韓国レスリング界の発展があったのは、沼尻さんのおかげです」と弔辞を述べた。

 友人代表として、笹原正三・前日本協会会長が「(沼尻氏とは)1951年の学生選手権で戦った仲。学生でありながら茨城県に協会をつくり、必ずオリンピックの金メダリストをつくると燃えていた。ロサンゼルス五輪で富山英明選手が、ソウル五輪で小林孝至選手が金メダルを取り、その思いを達成してくれた」と思い出を披露。「君と歩んだ50年の人生は、本当にすばらしかった」と遺影に呼びかけた。

 茨城県のレスリング協会からは小祝仁晃・副会長が「今でもこの場に現れ、私たちを叱ってくれそうな気がする。関東選手権を36年間、全国中学大会を30年間、日韓交流を34年間も続けることができたのも、持ち前の行動力があったから」と弔辞を述べ、「悲しんでばかりはいられない。1人1人が新たな前進を決意し、一致団結することを誓います」と、茨城県のレスリングの伝統を守ることを約束した。

 喪主の長男・克之さんによると、故人は2年前に心臓のバイパス手術をし、回復してしばらくは元気だったものの、昨年12月3日に体調を崩して入院。7日に心臓の検査を終え、「明日かあさってには退院する」と元気だったというが、その日のうちに心臓が停止。呼吸は回復したが、意識が戻らぬまま、10日午前に帰らぬ人になったという。

 同氏は茨城・水戸一高から拓大へ進み、1960年の全米オープン選手権グレコローマン・フェザー級で優勝するなどの実績を持つ。選手を引退後は茨城県レスリング協会の会長や国際特級審判員として活躍。全国中学生連盟を設立してジュニア世代の育成に尽力し、韓国との交流にも力を注いだ。(関連記事:2002年6月15日 ⇒ クリック


 日本協会・福田富昭会長の話「茨城県の会長として、オリンピックの2つの金メダル(富山英明、小林孝至)、ひとつの銀メダル(入江隆)、ひとつの銅メダル(太田拓弥)を取らせるなど、日本のレスリングの発展に貢献してくれた。全国中学連盟の会長として若い世代の育成にも貢献され、韓国・釜山との交流を34年間も続けるなど、すばらしい業績を残された。非常に残念だ。もう少しがんばってほしかった」

 
同時期に日本協会副会長を務めた押立吉男・全国中学連盟副会長の話「いい友達をなくし、痛恨の極みです。全国中学生選手権をスタートさせ、30年間守ってきた努力を、今度は私たちが守っていきたい。全国中学生大会に沼尻杯という冠をつけ、茨城県で開催し続けられるように努力したい。茨城県のレスリング界は、中学生選手の育成の努力を忘れてはならない」

 
同じ茨城県出身で国際審判員として活躍された富岡三千男さんの話「残念な方をなくした。会長の遺志を継いで、茨城県のレスリングがいっそう発展するように頑張りたい」

 
1984年ロサンゼルス五輪金メダリスト・富山英明さん(茨城・土浦日大高卒)の話「オヤジみたいな人です。私がロサンゼルス・オリンピックで金メダルを取った時、沼尻さんもゴールデンホイッスル賞(最優秀審判賞)をもらった。同じ金だな、といって喜んでいた。亡くなられても、その教えなどは生き続ける。それを守っていきたい」

 
1988年ソウル五輪金メダリスト・小林孝至さん(茨城・土浦日大高卒)の話「いろいろお世話になり、いろいろ指導していただいた。今の私の土台をつくってくれた方です。高校2年生の時の最初の韓国遠征での団長で、あの遠征が一番思い出に残ります。私と入江隆さんによるソウル五輪日本代表決定プレーオフの裁いてくれたのも沼尻さん。3人とも茨城県人でしたね。これも思い出です」

 
拓大同期生の宮沢正幸さん(前日本協会機関誌編集長)の話「同期生の中ではボクが一番先に入部し、千葉県協会会長を務められた島田君、そのあとにヌマさんが入ってきた。物資もない時代にすきっ腹をかかえてレスリングに取り組んできたが、その後、3人ともずっとレスリングにかかわってきた。その1人が欠けたことは寂しい。アテネ・オリンピックから帰ってきて電話し、『北京五輪は一緒に行こう』と話したら、あれほどオリンピックに携わってきた人が『もう、いいよ』と言って、疲れた声だった。天国から『早く来い』と誘われているような気がするが、もう少し待ってもらう」



《前ページへ戻る》