【年始特集】中京女大から至学館大へ! 女子レスリング最強軍団の過去・現在・未来(3)【2010年1月4日】

(文=樋口郁夫)

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 1992年の坂本涼子の世界チャンピオン奪取が中京女大の最初の栄光だが、今の黄金時代を築くきっかけとなったのが、2000年の坂本日登美(現自衛隊)の世界選手権優勝だ。京樽から中京女大に活動の場を移した栄和人監督がなした最初の大きな業績。坂本の殊勲がなければ、中京女大の栄光はもっと後まで待たなければならなかったかもしれない。

 1996年に栄監督が指揮することになった中京女大は、坂本涼子以来、全日本チャンピオンがいなかった。それでも杉山氏のつくったベースに栄監督の指導手腕が加わり、沢田千恵(56kg級)、辻結花(51kg級)ら全日本の2位、3位に入る選手が出てくれた。栄監督は沢田をアジア・チャンピオンへ(正確にはアジア国際トーナメント優勝=右写真)、大学からレスリングを始めた辻をキッズからのエリート選手だった山本聖子を破るまでにそれぞれ育成し、京樽で見せていた指導者としての実力をここでも発揮し始めた。

■坂本日登美への期待が、夜11時までの練習につながった

 大学から、そして日本レスリング界から認められるには、もうひとつインパクトのある成績が必要だ。もちろん沢田、辻にその期待を持った。そんな時期に、栄監督の目に強烈に入ってきたのが、1998年の全国高校女子選手権で見た青森・八戸大一高の坂本日登美だった。「構えとタックルという基本がしっかりしていた。この選手なら間違いなく世界一を狙えると思った」。

 青森まで行って勧誘し、日体大進学を視野にいれていた坂本を口説き落とし入学させた。自分が見込んでスカウトした選手だから、育てられなかった時に言い訳はできない。「ずいぶんと厳しい練習をさせましたね。教えた技ができなければ、できるまでやらせました」。

 坂本は必死についてきた。アンクルホールドがなかなかできず、夜11時まで練習を続けたこともあった。「結局、守衛さんから『もう閉める』と言われてやめたけど、6時間ぶっ続けの練習だった。まだ完全にできておらず、閉められるから仕方なくやめた」のだという。「全員にやらせていたけど、坂本がターゲットだったんだ。他の選手は内心面白くなかっただろうね。『日登美、あんたのせいよ!』って思っていたかも」と、その時を振り返る栄監督。将来を嘱望していた坂本なればこそ、妥協するわけにはいかなかった。

 だが、坂本は並の選手ではなかった。次の日にアンクルホールドをやらせると、完ぺきにできていたという。一本一本を真剣に挑んでいた証拠だ。そんな坂本は、1年生の12月にあった全日本選手権で見事に初優勝を飾る。

 坂本の階級には、世界一になった山本聖子は56kg級にアップしたものの、前年の世界チャンピオンの篠村敦子がいて、坂本が「10回くらい闘って1度も勝っていない」と言う1年下の伊調千春(当時京都・網野高)がいた。しかし栄監督は試合前、記者席で筆者にはっきりと言い切った。「51kg級は日登美が勝つからね」−。その言葉は、翌日(当時は1回戦から決勝を2日かけていた)、見事に現実のものとなった。坂本は準決勝で篠村を3−0で破り、決勝で伊調に4−3で勝ち、全日本選手権初出場初優勝を遂げたのだった(左写真:伊調と闘う坂本=上、初優勝しマットサイドで感激に浸る=下)

■「できなければ、できるまでやらせる」…栄和人監督の指導方針

 中京女大を率いて14年が経つ栄監督は「教えた選手の中で一番伸びしろがあったのが坂本でした」と振り返る。結果として、坂本を世界一にまで育てることができたのが、中京女大の栄光へとつながっていく。もちろんチームの監督として坂本だけを見ていたわけではなかった。「できなければ、できるまでやらせる」という熱烈指導は全選手に及び、全体の底上げに成功した。

 スカウトした付属高校選手を大府市の自宅マンションに住まわせ、生活の面倒を見ることも実行した。名古屋市にある高校まで、車で片道1時間近くの距離の送り迎えを毎日実行。「選手を預かった以上、親が安心できる環境をつくらなければならないと思った」。

 プライベートな時間がほとんどとれない生活。そこまでやった原動力は、「選手としてオリンピックで優勝できなかった悔い」だったという。「やるからには徹底してやらなければならない。時間、練習内容…。いっときも無駄にはできない。最高に有効に使わなければ、夢は達成できない。選手には悔いを残してほしくなかった」。

 坂本が全日本チャンピオンに輝いた1999年は、それ以前に宮本知恵が全日本チャンピオンになって世界選手権に出場し、岩間怜那が世界ジュニア選手権で優勝と、栄体制が開花し始めた年だった。翌2000年は世界選手権で坂本が金メダル(右写真)、岩間が銀メダル、宮本が銅メダルをそれぞれ獲得。全盛期を迎えることになった。

■坂本日登美の世界一奪取を機に、次々と世界で通じる強豪が出現!

 こうした中にも、栄監督には痛恨の思いも経験している。中京女大のレスリングの発展に打ち込むあまり、自らの家庭が崩壊してしまったことだ。栄光の陰には様々な犠牲が伴う場合が多い。栄監督の場合は私生活にそれがきた。「なぜ、あそこまでチームを強くしようとのめりこんでしまったのか、他にやる方法はなかったのか、自問自答する日が続きましたね」。

 選手にそんなことを悟られてはならない。指導に影響が出ないようにする苦労もあった。今は新たな家庭を持ち、過去を振り返る余裕ができたようだが、それでも、このことを口にした時の顔には悔恨とも感傷とも言える表情が浮かんだ。

 こうしたプライベートでのつまずきとは別に、坂本効果もあって中京女大には吉田沙保里(55kg級)、伊調馨(63kg級)、伊調千春(51kg級)、坂本真喜子(48kg級)という世界一を狙える選手が育ってきた。2001年9月には、2004年アテネ五輪での女子採用が正式決定しており、中京女大での3階級(48・55・63kg級)制覇も夢ではない状況だった(左写真=2002年世界選手権。左から伊調千春、吉田沙保里、浜口京子、伊調馨のメダリスト)

 五輪種目のメダル獲得が期待されるとあっては、大学からの期待も大きいものがあり、最初に杉山氏が受けた「レスリングなんてやめてください」という偏見は跡形もなく消えていった。しかし“難敵”は次から次へと訪れる。同じ階級に数選手が在籍したことで、指導がやりづらくなったことだ。これは男と女の指導の受け止め方の違いによるところが大きく、栄監督の経験では計り知れない世界だった。(続く)


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