【年始特集】中京女大から至学館大へ! 女子レスリング最強軍団の過去・現在・未来(1)【2010年1月2日】

(文=樋口郁夫)

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 世界最強の女子レスリング軍団、中京女大が消える−。学校法人中京女子大学(谷岡郁子学長=愛知県レスリング協会会長)は2010年4月、学校名を「中京女子大学」から「至学館(しがくかん)大学」に変更する。これによって、日本の女子レスリングを支えてきた「中京女大」、および劇画の題名ともなった「ちゅうじょ」がレスリング界から姿を消すことになる。

 だが、中京女大のなした数々の金字塔は永久に消えることはない。その伝統は、至学館大に引き継がれ、日本レスリング界に脈々と伝わっていくはずだ。中京女大の足跡をたどるとともに、至学館大の目指す新たな栄光を追った(左写真=中京女大の栄光を引き継ぐべき選手たち)


 五輪金メダリストがのべ4人、世界チャンピオンがのべ24人。アジア・チャンピオンやワールドカップ個人優勝、ゴールデンGP決勝大会チャンピオンまで含めれば、相当の数の“国際チャンピオン”を輩出した中京女大(OGを含む)。その源流は、1988年4月、グレコローマン52kg級で世界2位の実績を持つ杉山三郎氏(現中京女大レスリング部顧問=右写真)が中京女子大学付属高校(現至学館高)で、レスリングの素人を集めてスタートしたことだった。

 選手生活を引退したあと、実業界で活躍していた杉山氏は、当時の日本協会・笹原正三理事長(のちの会長)の推薦で、中京女大へ赴任することになり、1年目は付属高校の教員へ。日本協会で使っていないマットがあるので貸与してくれることになり、日本で初めての女子高でのレスリング部創設が決まった。

 笹原理事長と谷岡郁子学長とのつながりで生まれたクラブ。地元の中日新聞や中日スポーツが紙面を割いてくれ、そこそこの注目はあった。その影響かどうか分からないが、辛うじて数人の選手が集まった。しかし、新しいクラブがいきなり優遇されるものではない。道場はなかったので、マット6枚程度を敷くのが限度というスペースを見つけ、毎日マットを上げ下げしての練習だった。

 「周囲との闘いもあった」と振り返る。1988年といえばソウル五輪が行われた年で、同五輪では女子柔道が公開競技として実施された。しかし、そんな“五輪競技”の柔道ですら、「女の子が格闘技なんて…」という風潮が根強く残っていた時代であり、地域だった。柔道以上に体が密着するレスリングは、当然、男子コーチと女子選手との接触が多くなる。周囲の偏見は小さくなかったという。

■周囲の偏見と無理解と闘った創部直後、同好会なので大学からの部費もなかった

 世界2位の実績のある杉山氏だが、女子の指導は始めて。女子の指導に信念があったわけではない。そこで、女子レスリングのパイオニア・クラブの代々木クラブで女子の指導を手がけていた木名瀬重夫コーチ(現日本協会専任コーチ)に聞くと、「今度一緒に練習しましょう」との回答。

 同年8月、代々木クラブと、同じく女子を手かげていた大阪の吹田市民教室とが名古屋へ来てくれ、合宿をすることができた(左写真=中央が杉山氏)。「あの時、やっと女子の指導の何かが分かりました。この選手たちが、女子レスラーなんだな、と」。

 こうして愛知県に女子レスリングの芽を植えた杉山氏は、翌年、中京女大に赴任したことで、大学にレスリング部をつくることになった。幸い、前年の合同合宿でつてのできた吹田市民教室から、57kg級全日本チャンピオンでもあった坂本涼子が入学してくれることになった。はた目からみれば、これで軌道に乗ったかに思えた2年目だった。

 実情は違った。高校と同じで、“新参者”のレスリングがあたたかく迎えいれてもらえることはなかった。専門の練習場所はなく、芝生の上でスパーリングをやっていた。やっと剣道部がやっているスペースの隅を間借りして確保した。「剣道というのは声を出しますよね。それがうるさくて、選手へのアドバイスがまったく届かないんですよ」(もっとも、これは2004年アテネ五輪の少し前まで続くのだが…)。

 対外的には「中京女大レスリング部」と名乗っていたが、実際は同好会だった。部に昇格するには、「同好会で3年以上」とう実績や部員数などの規則があり、それを満たしてはいなかったからだ。そのため大学からの予算はなく、東京での大会に出場する時の経費はすべて自費。五輪種目になった今は、全日本合宿時の交通費・宿泊費は協会が出すが、当時はそんなこともなく、合宿に行くにも自腹を切って参加しなければならない時代だった(右写真=十日町に専用の練習場ができた女子レスリングだが、中京女大は参加の度に費用の問題で頭を痛めていた。右から2人目が杉山氏)

 周囲の視線も高校の時とまったく同じだった。ある大学職員から言われた言葉は、今でも杉山氏の心に残っている。「ただでさえ評判の悪い大学なんですよ。レスリングなんてとんでもない。さらに評判を落とさないでください。レスリングなんてやめてください!」。ここで杉山氏がくじけていたら、その後の中京女大の栄光はなかった、

■大学での創部4年目に坂本涼子は世界チャンピオンへ

 世界2位にまで駆け上がった男の意地が、周囲の視線に負けなかった。「とにかく世界チャンピオンをつくることだ」。同年8月にスイスで行われた第1回世界女子選手権(後に1987年の大会が「第1回」となり、第2回大会になった)に出場した坂本に同行し、世界の女子レスリングを研究。一歩一歩女子の指導者としての道を歩んだ。

 部の財源づくりにも奔走した。指導者というのは本来マットの上に専念すべきものであろう。強いチームは、常に監督かコーチがマットの上で指導している。一方で、選手が親に無心(金を頼むこと)し続けたり、金の心配ばかりしていたら、強くはなれない。杉山氏は選手に安心して練習に打ち込める環境づくりを優先した。

 当時はバブル経済の真っ只中で、企業が積極的にスポーツに参入していた時代。レスリングは人気がなく企業からは相手にされていなかったものの、女子にだがユナイテッドスティール、朝日住建といった企業が参入し、京樽も手がけてきた。杉山氏の実業界での経験がモノをいい、いろんな企業との交渉の結果、リプレ化粧品がスポンサーとしてついてくれることになった。

 記録をさかのぼってみると、中京女大の選手は一時期、「リプレ中京女大」という所属で出場している。「年間100万円から200万円の援助がありました。金の心配をすることなく合宿に行けて、本当に助かりました」。

 坂本は杉山氏の期待にこたえ、ひざの大けがによる1年近くの戦線離脱を乗り越えて大学4年生の時(1992年)に世界チャンピオンに輝くことになる。杉山氏の指導者として、さらに“経営者”としての努力が実った時。大府市で行われた祝勝会の席上、杉山氏は「女子はオリンピック種目ではありません。しかし男子(のバルセロナ五輪)にはなかった金メダルがあります」とあいさつし、目を潤ませた(左写真=祝勝会での坂本涼子選手)

 だが、これは栄光の序章。杉山氏の闘いはこの後も続いた。(続く)


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